天保中羽咋郡梨谷小山村に陶器を製せしことあり。同五年寺井の庄三西性寺の僧了照の爲に招かれ、こゝに駐りて土燒に著畫すること一年、鹿島郡井田村の明傳寺も亦協同出資せり。この年庄三が火打谷の山中に黒色顏料を發見せしことは前に述べたるが如く、六年閏七月兩寺は藩に對して、貧寺小庵自ら支ふること難きが故に、内職として火打谷の呉須を使用し、製陶に着手したることを屆出でたり。然るに藩は、寺院に於けるこの種の營業を以て製陶業者に害ありと認めたるが如く、七年二月兩寺の樂燒を製して賣出すことは妨げざるも、土燒を作るを禁止すと令せり。是に於いて兩寺は再び出願して土燒の製造繼續を許可せられしが如く、七年十月製陶の成績佳良なるを以て冥加銀二枚を上納せんことを上申したるを見る。その販路は伏木・宮腰・敦賀・大坂に及びしが、後代價の回收意の如くならず、爲に安政元年冬に至りて業を廢せりといふ。 拙寺共之儀者貧寺小庵に御座候故、爲内職燒物仕、寺相續方之助力に仕度之旨、先達而拳願上候之處、樂燒之儀は勝手に賣捌可申、土燒物之儀は外に御指障に相成候間御指留之段被仰渡置候處、今般土燒物之躰之燒物仕候樣御聞請御座候に付、土燒物堅不仕候樣重而嚴重被仰渡、奉得其意候。此儀に付追而願之筋達御聽候間、宜樣奉願候。右御請上之申候。以上。 天保七年二月羽喰郡小山村西性寺印 鹿島郡井田村明傳寺印 寺社御奉行所 〔呉須土掘出方等一件〕 彌藏燒は珠洲郡正院に製せらる。天保の初年同村の人彌藏の創めたるものにして、陶土を蛸島村上田の坂に探り、窯を正院地内觀濤山に設く。その製法は之を加賀の九谷系より學びたるも、何人によりて傳へられたるかを明らかにせず。製品は日用の器具を主として茶器に及び、天保六七年の頃金澤の人吉野孝太夫の斡旋にてその地に販賣せり。葛原秀藤日記天保七年二月二十二日の條に、『彌藏燒物は金澤に賣り弘むること吉野がはたらきなり。』とあるもの是なり。その窯印は角中に正字を書す。遺品に黒褐色を以て描線し、黄釉を塗りて鯉を描き、『天保丙申遊于能州正院陶舍平安文龍印』とある大鉢あり。嘉永中に廢窯す。