三盃燒は、天保中珠洲郡南方の富豪三盃助平が、弟九郎左衞門の生業として谷崎の地に窯を設けたるに起る。葛原秀藤日記天保八年五月二十二日の條に、『三盃陶器の燒場見にゆく。谷崎に在り。』とあり。陶土は之を同村穴竈より採り、加賀九谷系の陶工を招きて徒弟を養成し、後には京都清水よりも招聘せり。製品は日用品にして産額多く、明治二十年の頃に至るまでその業を繼續せり。この外同郡法住寺村に清水(シミヅ)燒あり、粟津村に白馬燒あり。皆同系に屬すべしといへども、今その詳を得ること能はず。