金澤に於ける描金の技術は、前田利常の時京都より五十嵐道甫を招致したるに濫觴し、綱紀の時椎原市太夫の江戸より下るに及びて益その盛を致せり。是より後五十嵐氏の系統に屬する工人は城下の西部犀川方面に住し、椎原氏の門下より出でたる者は城下の東部淺野川方面に在りて、共に時樣を趁はず凡俗に阿らざる著實の作風を傳へたりき。かくて藩政の末期寛政の頃には五十嵐尚廣・五十嵐指月あり、文政には五十嵐春湖・椎原龜之丞あり、天保の頃には米田孫六ありて、皆名工の名を擅にせり。尋いで澤田次作あり。次作は初め椎原流の技を能くせしが、終に自家獨特の長所を發揮したりき。葢し漆器の利用甚だ盛なりしこの時代に於いて、描金の尊重せられたること固より論なく、之に從事せし所の工人甚だ多かるべしといへども、その傳記を遺したるもの殆どこれなく、纔かに數代連綿たりしものに就いて一端を窺ひ得るに過ぎざるなり。 國寶蒔繪料紙筥羽咋郡上甘田村妙成寺藏 國寶蒔繪料紙筥 國寶蒔繪手筥江沼郡福田村菅生石部神社藏 國寶蒔繪手筥