五十嵐道甫は信齋の後に出づ。信齋描金に巧みなりしを以て足利義政に仕へ、當時世人の愛好したる元明の畫樣に基づき清雅端麗の作風を創始せり。所謂五十嵐風と稱するもの即ち是にして、通説によれば彼は永祿年中に物故せりとせらる。然りといへども義政に仕へて手腕を振ひたるものゝ、到底永祿に至るまで生存すること能はざるべきが故に、恐らくは二代の同名ありしにあらざるかとも思はる。信齋に次ぎて甫齋あり。豐臣秀吉に仕へて大坂に住し、技術の精妙父に讓らざりしが、後京師に歸りて歿せり。甫齋の子は即ち道甫にして、幼名を忠三郎といひ、初め京都須磨町に住せしが、寛永中前田利常の聘に應じて金澤に下り、退老の後また洛に歸りて歿せり。世に之を古道甫と稱す。 古道甫に次ぐものを第二世道甫と爲す。初名を喜三郎といひ、京都室町なる幸阿彌清三郎の弟なり。喜三郎古道甫の養ふ所となりて共に金澤に下りしが、後その家を繼ぎて御門前町に住せり。世に千鳥形と稱せらるゝ硯箱は彼の遺したる意匠にして、之が製作は五十嵐系の描金工が秘傳とせし所とす。喜三郎の歿後、正徳五年古道甫の妻玉遊二孫女を携へて京都に還り、その後五十嵐氏の正系金澤に斷絶せり。この時玉遊の藩に提出したる文書は、喜三郎の逝去年月に關する紛々たる諸説を決定するものにして、通常彼は元祿十四年に歿したりとせらるゝも、若し果して然りとせば正徳五年に於いて十三歳及び十四歳に達したる遺兒あるを得ず。必ずや元祿十六年以降正徳五年以前に在らざるべからざるなり。この書中に庄兵衞といへるは古道甫の門人にして、儀右衞門は喜三郎の弟子なり。儀右衞門亦五十嵐氏を冐したりしが、後に子孫を斷てり。 乍恐申上候。 十三歳振袖孫なつ 十四歳振袖孫ちろ 右私儀、生國京都の者に御座候處、先年より御當地え罷越居申候。今般京都え罷歸候に付、御當地にて出生仕候孫兩人召連申、當三月二十五日罷立申度奉存候。則十三間町蒔繒司庄兵衞、御門前町蒔繒師儀右衞門請人に相立申候。右兩人共駕籠一挺にて召連申候。御過書被懸御意被下候樣奉願候。以上。 御門前町五十嵐喜三郎故養母 正徳五年三月四日玉遊印 町御奉行所 〔五十嵐氏文書〕