藩政時代に在りては、髹漆を業とするものを塗師と鞘師との二種に區別せり。塗師といふは、主として家具・器具に髹漆を施し、又は漆を以て裝飾するものにして、蝋色塗・刷毛目塗・吸出塗の如き漆澤の美なるものを製するを特色とし、鞘師は刀室を塗るものにして、石地塗・時雨塗の如く堅緻能く雨雪と日光とに堪ふるものを作るを長所とす。然れども前者は描金工の附屬たり、後者は刀工に隸するものたるの觀あると同時に、工藝としての地位亦甚だ高しとせられざりしを以て、今此等の工人に就きて知ること頗る困難なり。 鞘師の有名なるものには高良又之丞あり。世々その技を以て加賀藩の俸を受け、寶暦元年藩侯の北野神社に寄進したる寶刀の室も亦その作る所なりき。高良氏の外、安永以前より鞘師を世職としたるものに梅田九藏あり。その門人中長次は文化・文政の頃に出で、長次の子榮之進は嘉永・安政の間に於いて一世の良工と稱せらる。之と時を同じうして越中富山の人平野藤兵衞といふ者來りて金澤に住し、初めて江戸風の髹法を傳へしかば、全藩の刀室是より面目を一新せりと傳ふ。その後國内騷擾し武器の需要益増大せし際には、高尾甚右衞門・小西伊太郎・杉本惣吉等數十の工人ありて各その手腕を發揮せり。明治二年鍛工兼豐・清光の朝命を拜して御劔を作りし時、その室は伊太郎及び惣吉の製する所なりき。 金澤の塗師は、寛永の頃甚兵衞といふ者江戸より來りたりとの事あるも、その後二百年の間に亙りて一人の名を傳ふるものを見ず。文政に至りて塗師兵衞及び村越某ありて精良の名を得、藩末には牧太四郎・鷹栖喜右衞門等藩命を奉じて製作に從ひ、その他米永太兵衞・車屋伊助も亦良工と言はれ、永井與三兵衞は紗の目塗を創始せり。 金澤以外にありては、山中及び輪島の漆器あり。山中は木地の製作を主として、髹漆と描金とを從とする工藝とし、輪島は髹漆の技に於いて勝れ、木地の製作と描金とを之に附隨せしむるものなりといへども、共に山中塗及び輪島塗の名を以て世に知らるゝが故に、今便宜こゝに列記せんとす。