江沼郡山中の温泉は、藩政以前より夙に開け、浴客四方より集りしを以て、轆轤細工の簡單なる玩具を製し、土産物として販鬻したりしが、元祿の頃に及びてその技稍進歩し、繼燭臺・茶托等を出すに至れり。次いで寶暦年間栗色塗を創む。これ後に山中塗の一特色として數へらるゝ朱溜塗の起源なり。而も尚業務甚だ盛なること能はざりしが、寛政の頃山野屋九郎兵衞が販路を京坂地方に求むるに至り、俄然として活況を呈し、山崎屋佐吉・額見屋惣七等も亦同じくその擴張に奔走盡力せり。文化中出藏屋三郎右衞門といふ者、越前丸岡藩の御用塗師幾藏及び彫物師善藏を招きて自家の佛壇を製作せしめしことあり。幾藏その後山中に留り、門下永屋與四郎・小倉屋三郎右衞門と謀りて朱塗・青塗・石黄塗を製出し、又堆黒香盤・堆朱和讃卓・玉子塗杯臺等の技術頗る見るべきものを遺せり。天保の頃よりこの地の漆器業に從ひしものに三谷屋傳次郎・山屋久三郎ありて、大に山中塗の販路を擴張せしのみならず、傳次郎は多く良工を有し、彼等を督して盛に日用食器類を製せしめしかば、轆轤細工の最も精巧なるものは專ら彼の工場より之を出すの觀ありき。同じ頃會津の塗師重右衞門來り、僅かに一年にして歿したりしも、その間に漆液の製煉・色塗の配合・廻轉乾燥風呂棚の製法等を傳へ、邑民越前屋六右衞門は研出塗・貝蝋塗・星鹿子塗等を案出せり。嘉永の頃に至り山屋久三郎主として漆器の改良を唱道し、自ら大坂等に至りて各種の髹法を研究し、又その標本を蒐集して齎し、漆工三國屋彌右衞門と謀りて之を模造し、且つ薄手木皿・筍辨當の製を始めて山中塗の爲に萬丈の氣焔を吐き、弘化より以降蓑屋平兵衞は木地挽に天才的手腕を發揮して糸目挽を創め、筋物挽の祖と稱せられき。次いで外國貿易の行はるゝや、萬延元年山野屋理八は大坂の井波屋嘉助と共に長崎に販賣を試み、文久中には山中に漆器會所を設置し、慶應三年大聖寺藩の産物役所を起し産業を奬勵するに及び、久三郎はその補助を得、三谷屋傳次郎・松本屋文吉と共同して江戸方面の販路を擴張し、明治元年にも亦藩の補助を受けて蒸汽機關を蟋蟀橋畔に設け、以て塗下木地の製造を開始せり。