山中塗に蒔繪を施すことは、文政八年京都の人善介この地に來り、邑民笠屋嘉平之に就きて學びたるに濫觴するが如し。天保九年會津の蒔繪師由藏亦業をこゝに開き、安政六年九月物故の後子孫世々會津屋と稱してその職を襲げり。越前屋六右衞門及び岡屋喜作また由藏に技を習ひ、次いで金澤の人一徳齋によりて高蒔繪の法を傳へらる。かくて蒔繪の技術は、京都より會津より金澤より前後に輸入せられたりといへども、元來山中塗の特長とする所は、轆轤を用ふる木地挽の巧妙なると價格の低廉にして浴客の購求に適することにありしを以て、蒔繪を施して裝飾とするものゝ如きは製産の僅々一部分に止り、その他は盡く繪具若しくは漆を以て木地を蔽ふに過ぎざりき。 山中塗に使用せらるゝ木地製作の濫觴に就きては、この地方に一種の傳説ありて行はる。曰く、文徳天皇の皇子惟喬親王落飾の後近江國小倉谷に隱棲し給ひ、里人光長・光吉といふものに轆轤を用ひて食器を製作するの法を授け給へり。二人是より木地挽を以て業とし、親王薨去の後報恩の爲に社殿を造りて祭祀を營みしかば、承平五年朝廷彼等の篤志を嘉し、勅して轆轤師の職頭に任じ、諸國の山入を許し給へり。降りて天正の頃に至り、その徒にして越前國吉河鞍谷大同丸保に住するものありしが、彼等の中更に加賀山中川の上流なる眞砂の地に來り、材を採り挽物を爲す者ありしより、遂に山中の産物たる基を爲しゝなりと。 今之に就きて聊批判を試みんに、山中の木地挽が眞砂に起り、而して眞砂のこの業が越前より入り來りしことに就きては、夙く寛政・享和の頃の茇憩紀聞にその記述あるを見る。 眞砂此村往古越前越智山の麓に田倉の助兵衞といふ者、眞砂の蓮光谷といふ所へ來り住居し初むと云傳ふ。昔九谷より奧に人家なし。或時川上より古き椀流れ來り、不思議に思ひ尋しに眞砂村とてあり。木地挽を業とす。山中の木地細工は當村より習ひしとぞ。故に木地眞砂といへり。今は木地挽者なし。しやくしを業とす。 越前州今南東郡吉河鞍谷大同丸保塗師屋・同轆轤方之蕪頭(マヽ)事、正應・正安任度々例、故織田信忠惣國中塗物以下於末代無相違可進退旨定訖。然上者諸役可爲免除。若違亂之輩在之者、堅可停止旨可令下知正重給由、天氣所候也。仍執達如件。 天正八年三月十六日左大辨在判 左大史殿 國中轆轤師・同塗師屋方法頭(マヽ)之事 正安三年十一月日御院宣並府中兩人折紙有之。殊惣社兩度之諸役等無懈怠云々。就其他國轆轤師引物者、不及案内商買之儀堅可令停止之。然上者任先規例可進退者也。仍如件。 永祿二八月十日景連在判 養統在判 是利在判 景定在判 越前國鞍谷轆轤中 右眞砂村に持傳ふ。今に村役人預り置秘藏す。 〔茇憩紀聞〕 茇憩紀聞に載せたる二通の文書は、越前國名蹟考南條郡大河内村の條に村方所持舊記として記したるものと同一なり。而して文中の吉河及び大同丸保といふものゝ何れの地なりやを知らずといへども、主として今南東郡即ち後の今立郡鞍谷に宛てたるものゝ如くなれば、元來大河内村に存したる文書にはあらざるなり。是を以て眞砂の木地挽業が、丹生郡越知山麓田倉の助兵衞によりて將來せられたりとする茇憩紀聞の説を信じ得べしとせば、眞砂も大河内も共に鞍谷より技術と文書とを傳へたるものなるべく、而も越前と近江との間に何等かの關係ありや否やに就いては遂に之を闡明すること能はず。況や惟喬親王が木地挽の祖神たることの俗説たるべきは、既に學者の喝破する所なるに於いてをや。葢し山中にこの説話の起りしこと最近に在り。即ち同地の木地職澤出万吉といふ者、明治三十年偶大河内に赴きしに、大河内神社の祭神が惟喬親王にして木地屋五郎右衞門といふ者之に奉仕し、而して五郎右衞門の祖先が近江より移住したる際之を遷座奉祀したるものなるを聞き、更に同國に至りて所傳を探りしに、惟喬親王が木地挽の祖神として崇敬せらるゝことを知り得たり。因りて万吉は、その後獨力山中東山公園に親王の石像を建設し、明治四十年之が除幕式を行ひたりき。惟喬親王の傳説の輸入せられたるもの實に之を以て嚆矢とし、而して今や夙くも事實として妄信する者あるには至れるなり。