鳳至郡輪島町に於いては又古來漆器を以て名産とし、輪島塗の名を以て廣く世に知らる。然れどもその起源に關しては、所傳頗る區々にして容易に眞相を捕捉し難きものあり。或は曰く、初め紀州根來寺の僧徒等、佛事修行の傍食器類に髹漆を施しゝものあり。これ即ち根來塗なるものにして、間々黒漆のものなきにあらずといへども、多くは朱塗を以てせり。天正中根來寺が豐臣秀吉の爲に焚掠せらるゝに及び、一山の勢大に衰へ、根來塗も亦中絶したりといへども、髹法は僧徒の離散と共に四方に傳播し、北に於いては會津塗となり、南に於いては薩摩塗となる。而して我が輪島塗も亦その分派せるものなるが、之が創始は稍時代を早くし、後小松天皇の御代に根來寺の僧にして輪島の重蓮寺に來りし者ありて、同寺の爲に膳椀等に髹漆を施したりしに、土人の之を學びしより大に隆盛となりしなりと。或は曰く、輪島塗の起りしは實にその頃に在りといへども、根來の僧がこゝに來りて傳へしにはあらず。輪島の人福藏といふ者彼の地に赴きて之を習ひしなりと。思ふに文明八年に建造せられたる輪島町重藏神社講堂の棟札に三郎次郎・定吉二人の塗師の名を記し、又明治三十九年四月特別保護建造物として指定せられたる同神社の本殿は、大永四年に建造せられたるものにして内陣の唐戸を朱塗とし兩端の間を黒塗とし、且つ同神社の所藏に係る享祿四年辛卯六月再興と底板に記されたる神輿にも塗裝飾を加へたりし等の事實を綜合するに、當時既に盛に髹漆のこの地方に發達せることを知るべきも、惜しいかな是等貴重なる髹漆の研究資料は明治四十三年四月の火災に際して悉く烏有に歸せり。かくて輪島塗の創始は、假令傳説の如く後小松天皇の時代に在りとするを確實ならずとするも、尚且つ室町末期以前にあることは明らかなるが、土地の邊鄙なるが爲に商品として搬出すること容易ならず、藩政初期に在りては從業者十指に滿たざるの状況に在りき。然るに寛文中に至り、郊外小峰山に地の粉と稱する黄土を發見し、之を燒灼して漆液に和したるを塗料の下地として使用せしより以來、初めて他の追隨を許さゞる堅牢無比の製品を産出し得るに至れり。されば重藏神社の社傳に、『漆器を作り四方に賣り歩行かせしに、大神教へ給ひけるは、土器殿の邊の土を燒きて漆に調和して用ふべしと託し給へり。即ち神託の如くにして造るに、塗堅固にして他製に勝る。』といへるは、固より事を神秘とするものにして信を措くに足らずといへども、地の粉發見が輪島塗をして直に頭角を露さしむるの主因となりしこと論を待たず。是を以て元祿以降販路四方に擴張せられ、塗師屋覺兵衞・笠屋佐次右衞門・久保田三郎右衞門・塗師屋長右衞門・松木屋六郎兵衞・上金屋七兵衞・塗師屋半四郎・小西屋三郎左衞門・塗師屋嘉兵衞・矢花屋傳十郎・島崎久右衞門・漆屋九十郎・新保屋五郎助・中江屋八右衞門・木下屋三右衞門・漆屋又兵衞・寺田屋勘右衞門・岡野屋三郎兵衞・木屋徳右衞門・岡野屋重左衞門・小西屋權兵衞・笠屋五兵衞・柹木屋善右衞門などいへるもの、皆漆工としてその名を後世に傳へたりき。