かくて漆器の地質は既に堅牢なることを得たりしが、その上模樣に就きては未だ何等の工夫を凝らすの機運に向かふ能はざりき。然るに享保年間に至り、當時輪島塗の過半を生産したる三笠屋伊平といふものありて、その賣捌先たる松前よりの歸途、一日彫刻の技に秀でたる六部に邂逅したりしかば、之を伴ひ歸りて髹漆せる硯箱に唐草を彫刻せしめしに、大工五郎兵衞見て大に悟る所あり、乃ち鑿の刄先を鋭利にして巧に圖樣を彫刻するの法を案出せり。降りて明和の頃に舘順助あり、雅水と號す。京師に至りて繪畫を學び、遂に漆器に花鳥人物を刻し、凹部に漆液を沈めて金箔を壓貼し、その乾燥したる後紙片を以て表面を拭ひ去るの方法を發明す。沈金彫といふもの即ち是なり。之より後多種多樣の鑿を應用するに至り、益技巧の精練を加ふると共に、手法極めて新奇にして外觀亦美麗なりしかば、漸次市場の稱贊を博し、從ひてこの業を營むもの數十戸に及べり。次いで文政の頃會津の蒔繪師安吉、輪島に來りて蒔繪の法を傳へしに、その技術忽ち長足の進歩を爲し、沈金彫と並び行はれたりき。