藩が漆器業者を保護し若しくは取締る方法は、古來何等の施設あることなく、唯僅かに天保年間輪島附近なる稻舟の十村笠原文左衞門といふもの、藩より若干の資金を借り、更に之を當業者に貸附して生産の増額を圖りたることありし時、藩は年行事を置きて營業者の監督に當らしめ、又その後慶應中鍵屋久左衞門・松屋文右衞門の二人に命じ、漆器業者の取締と課税の取扱に任ぜしめたることあるに過ぎず。 輪島塗漆器の販賣を業とする者は、初め各自隨意に諸國に出張して注文を得たりしが、天明中に至り、松木屋佐平次・笠間佐次右衞門外十名は相協同して大黒講を組織し、一面職工養成の方法を定むると共に、一面には販賣價格を平準ならしめ、各自の販賣區域を侵害することなく、而してこの規約を遵奉せざるものを處罰する等の申合を爲しゝかば、爾後大に顧客の信用を得て販路益擴張せり。降りて天保年中京師の書家貫名海屋のこの地に遊びし際、同業者等之に揮毫を求めしに、海屋は降爾遐福の〓額を與へたりき。是より後同業者の組合を遐福講と名づくるに至れり。 輪島漆器の生産が漸く隆盛に赴きたる理由は、主として榡材及び地ノ粉をその地に産し、又生漆の大部分を附近村落より仰ぎ得たるに因り、而して之が販賣の廣く各地に開けたるは、塗質緻密堅牢にして取扱粗暴なるも容易に損壞剥離することなく、又熱湯を注ぐも膨脹龜裂せずしてその用の久しきに堪ふるの特色ありしを以てなり。 能州鳳至郡輪島といへるところあり。北陸の船着にて數百戸建ならび、旅客米魚の賣買日夜をいとはず、榮民はなはだしきところなり。こゝの産物、家毎に索麪を製す。又家具・辨當ぬりものをいとなむに、夏日大船に木地をしとゝ積いれ、職人等かの船に數日の糧を貯へ、遙の沖中に碇をおろし、數多塗物をこしらふなり。大海蒼波のうへに一塵あらねば、ほんのりと出來あがり、心のまゝに不凡の名器をなせり。これを沖塗といへり。されば盒子・盌のたぐひ、投るに憂慮なく堅固なり。しかも一日に數百壺の漆を費すとなり。いにしへより今に絶えず。諸國へも聞えて名高きうつはものなり。 沖ぬりや渠等が喰ふ沖なます北巠 〔北國巡杖記〕