加賀藩の染業に就いて先づ述べざるべからざるは黒梅染のことなり。元來室町時代に在りて梅染がこの國の名産たりしことは第一編に述べたる如くなるが、後には專ら黒梅染が愛好せらるゝに至りしと見え、藩初には盛に行はれたりき。黒梅染とは梅染を幾度も繰返して黒色を帶びしめたるをいへり。 くろうめ一だんみ事に出來候。いま又卅たんあまりもそめ可申候。きれをはんでつかはし候べく候。此かみ五そくこんやにとらせ可申候かしく。 十月廿日はひ(前田利長) こん平 九兵へ參 〔館紺屋傳書〕 武家名目抄に『東武實録云寛永五年十月二十八日加賀中納言利常加賀染の手綱百筋進献す。』とあり。こゝに加賀染といふものは梅染若しくは黒梅染なるべし。手綱に梅染の用ひられたることは、夙に親元日記文明十七年四月の條に見えたり。又藩政の時より今に至るまで金澤にくるみや橋なる橋名あり。くるみや橋は黒梅屋橋の轉訛にして、橋畔に黒梅染を能くする染工黒梅屋といふ者が住せしによりてその名を得たりといひ、元祿六年の士帳に味噌藏町黒梅屋橋、享保九年の士帳に黒梅橋と記さる。然るにその後梅染又は黒梅染の法は斷絶して全く傳ふる者なきに至りしを以て、貞享元年前田綱紀は之に關して調査する所ありしに、染工の答申する所は左の如くなりき。 御尋に付申上候。 一、御國梅染之儀、紺屋中存之者有之候ば、色合又は染樣之御尋被爲成候。先年より梅染と申名は及承申候へ共、終染申儀無御座候。併御國黒染を黒梅染と申候。惣而下染を黒仕候而、仕上を梅の木をせんじ染申候へば、匂能御座候。其故黒梅染と申ならはし候樣に奉存候。別に梅染と申儀は私共不奉存候。以上。 貞享元年六月二十一日棟取與助 同次左衞門 同四郎兵衞 御紺屋六郎左衞門 同八兵衞 同藤兵衞 同彌三右衞門 同九郎兵衞 同長兵衞 同次郎右衞門 同市郎右衞門 同四郎左衞門 同久兵衞 同次右衞門 同長左衞門 同加兵衞 上坂勘六郎殿 〔町會所舊記〕 ○ 御尋に付申上候。 一、御國御手綱に染上申梅染は、梅かわにはりの木のかわをくわへ、あかき色に染申を梅染と申候。 一、梅かわ計にて染上申候へば、かわらけ色に罷成申候。是をば梅染と申候。 右之通に私共染覺申候。 貞享元年六月二十二日御紺屋彦右衞門 同八右衞門 同五郎右衞門 同太郎兵衞 同重兵衞 同清右衞門 同九右衞門 同新右衞門 同九郎兵衞 同權右衞門 同勘右衞門 町御會所 〔町會所舊記〕 ○ 一、御國梅染之儀夜前御尋被爲成に付、何も紺屋中町御會所へ罷出詮議仕候得共、慥成儀存候者無御座候故、其段御請申上候。先ば先年大納言樣御代より染物被仰付候館紺屋新五と申者、唯今七十三歳に罷成、身代おとろへ大樋町に罷在候故、私罷越新五に樣子相尋申候へば、新五申候は、先年梅染はくり色に御座候へ共、色合黒みを御好被遊候付、染上候へば一段應御意申候故、其以後は黒梅染と申來候由新五物語仕候。然共御染物之義は、唯今は黒梅染を御國染と申候。則新五方に大納言樣・古肥前樣・中納言樣御代々御書數通所持仕候。則御書にも黒梅染之御文言御座候。右御書私方に預り置申候。以上。 こんや棟取 貞享元年六月二十二日與助 町御會所 〔町會所舊記〕 ○ 就御尋申上候。 一、昔より申傳候梅染之儀、第一布を染申由承及候。絹・羽二重など之梅染之儀は以前は承不申候。併唯今は羽二重にても自由に染可申と奉存候。 一、御先代樣御意に而私親新五に、梅染にくろを懸候樣に被爲仰付、染上候段せがれ之時分承申候。地は何にて御座候哉、其段は覺不申候。 一、御國之黒梅染、布を染候事終無御座候。唯今被爲仰付候ば、如何樣に染上可申候。以上。 館紺屋 子六月二十四日新五 町御會所 〔町會所舊記〕 是等はいづれもその眞相を傳へず。唯黒染を黒梅染と稱すといひ、梅染は梅樹の皮を用ひて染むといひ、梅染は栗色なるも黒梅染は黒色なりとするの類稍事實に近く、殊に館紺屋新五の供述の採るべきものあるを思ふのみ。然れども新五の梅染は絹に施したることなしといへるは全く誤解にして、蔭涼軒日録に梅染平絹とも見ゆるが故に絹を用ひたることあるは確實とし、又日用三昧記天文九年の條に加賀黒梅の語あるが故に、黒梅染が前田氏の奬勵によりて創始せられしとも覺えざるなり。