かくて前田利常の頃に加賀染とまで稱せられたる梅染又は黒梅染は行はれざるに至りしかば、綱紀の世に及びては色繪又は染繪とも稱せられたる彩色染を加賀染と稱することゝなれり。この色繪の加賀染がいづれの年に初りしかは詳かならざるも、天和元年には石川郡宮腰の人長之が板行したる俳書加賀染ありて、その撰集竟宴の會に『加賀染や上下にわかつきぬ配』と吟じたるは之を指すものなるべく、又貞享三年板本朝二十不孝に『不斷も加賀染の模樣よく色を作り態をやれば』といひ、同四年板の源氏ひいながたに『今はやる菅笠の袖も加賀染、うちより見事なは衣通姫の模樣』といへるもの皆是にして、當時いかに廣く流行せしかを見るべし。元祿七年十二月十六日前田綱紀が金澤に在りて林鳳岡に與へたる消息の中に、『爰許に而申付候染物懸御目申候。模樣如何敷候へども手際を爲御一覽進之申候。御息女方へも御慰に可被遣候哉。』とありて、その模樣ある染物といへるもの亦色繪の加賀染なるべく、この染法が加賀の特産として大に自負の色ありしことは『手際を爲御一覽』といへる語氣によりて察すべし。加賀染は啻りこれを衣服に應用したるのみならず、亦屢懸物として愛翫せられたりき。今東京帝室博物館の所藏に係る染繪の畫幅に紫式部著源語圖ありて、その左方下端に『享保伍庚子六月十五日於加州御門前町染所茂平』と記せられ、その製作の頗る精緻巧妙の域に達したるを見る。茂平は家を太郎田屋といひ、後に名を與右衞門と改め、その家の由緒帳に『享保五年家相續仕、紺屋職仕罷在、同年父與右衞門之通御染物御用被爲仰付、紺屋棟取役相勤罷在申候。延享四年十一月病死仕候。』といふものなりといふ。當時藩がこの種の染繪を買上げて、諸家贈遺の用に供したることは左記の文書によりて窺ふべく、享保十三年は前田吉徳の初世なり。 覺 一、壹幅六拾目染繪懸物かいどうに尾長鳥 一、壹幅四拾貳匁同斷女三之宮 一、壹幅四拾貳匁同斷陶淵明 一、萱幅六拾五匁同斷須磨 一、壹幅五拾五匁同斷かいどうににわ鳥 一、壹幅五拾五匁同斷林和靖 右爲御用被調上、請取申所如件。 享保十三年二月十四日平田外記 町會所 〔御用御染物切手留〕