染繪を衣服の紋所に施したるを加賀紋と稱す。多くは彩色の上繪を以て花丸等を描きたるものとし、又その中央に家紋を白く拔きたるものあり。貞享四年板の男色大鑑に『物やはらかに美しげなる男の下には紫縮緬の引かへし、上に黒羽二重の兩面、芥子人形の加賀紋』といひ、又川柳に『加賀紋へ梅の折枝附け初め』といへるもの是にして、色繪の加賀染の起りし後、やがて男子の紋服にその應用を擴張したるなり。而して加賀に在りて御國染と稱するは、本來加賀染のことなるべきも、後世にありては特に憲法染に加賀紋を加へたるをいへり。 前田綱紀の世にはまた茜染の法を移入したることあり。葢し茜草を以て朱色を染むることは古來行はれたる所にして、雨露に遇ひて褪色の憂なきが故に武家の旗指物に應用せられ、加賀藩に在りてもその法なかりしにあらざるべきも、當時亦斷絶せしが如し。然るに但馬出石の領主小出修理亮の臣筒井長右衞門なるもの之を能くすと聞えしかば、綱紀は修理亮に請ひてその弟理右衞門を聘したりき。理右衙門の金澤に來れるは延寶二年九月に在りて、茜屋を家號とし、邸地を竪町に賜へり。後世茜屋小路を以て呼ばれしものは即ちその横町なり。四年秋理右衞門に拾人扶持・銀拾枚を年俸として給せられ、元祿十三年大衆免片原町に轉じ、享保五年正月六十九歳を以て歿す。理右衙門は茜染に長ぜしも形附の法に精しからず。是を以て藩在來の染工山崎屋藤右衞門・龜甲屋與助・黒梅屋治左衞門をして順次之を補助せしめしなり。理右衞門子なくしてその技を傳へしものなし。藩乃ちその未亡人貞保に諭し、使を出石に遣はして理右衞門の弟太右衞門を迎へしむ。時に太右衞門齡既に長じ、剃髮して雪齋と號したりしが、遂にその請を容れて享保十一年十二月金澤に來り、翌年居屋敷を觀音町に給ひ、扶持給銀を與へらるゝこと尚理右衞門の時に於けるが如く、更に苗字を稱することを許されて田中といへり。次いで十五年雪齋齡六十二に達したりしを以て、大野屋治右衞門なる者を養子として名を理右衞門と改めしが、同年十月歿したりき。然るにこの理右衞門は茜屋と稱するのみにして、未だ茜染の秘法を傳ふるに至らざりしかば、後にその業に從事することなく、十九年に至り龜甲屋與助等が曩に初代理右衞門を輔助して幾分その術を知りしが故に、藩は之に茜染御用を命ずることゝしたりしも、終に好成績を擧ぐること能はざりき。後寛政の頃に至り、藩は再び茜染を起さんと欲し、筒井氏が尚出石の仙石侯に仕ふるを知り、金澤町奉行高畠五郎兵衞に命じて交渉する所あらしめしも調談に至らずして止めりといふ。