金澤に於いて染業に從事したるものゝ舊家には第一に館紺屋あり。その祖高桑備後は一向一揆の魁として石川郡割出に住したる者なりしが、備後の子五郎といふ者の時河北郡森下に移りて染業に從ひ、之より世人館紺屋又は森下紺屋と呼べり。五郎の子孫十郎金澤に移る。今いふ紺屋坂はその屋敷の附近に在るを以て名を得たりと傳ふ。慶長三年卯月二十一日前田利家は、他染工に命じたる帷子の成績不良なるを以て自今森下紺屋孫十郎にのみ之に從はしむべしとの印書を與へき。但しこゝに孫十郎といふ者は孫二郎の誤なるかも未だ知るべからず。孫二郎は同五年五月二十七日利長の判書により金澤の紺屋頭に任ぜられたるものなればなり。利長の隱棲して越中高岡に在るや、孫二郎亦之に從ひ、千保河邊に方五十間の地を賜ひて工場に當つ。既にして利長薨じ、孫二郎は金澤に歸りて元和五年三月二十一日利常より紺屋頭たることを命ぜられしが、當時館紺屋の紺屋坂なる先の屋敷は既に收公せられたりしかば、藩は暫く孫二郎を味噌藏町に置き、次いで材木町に方十間の屋敷を與へたりき。後世館紺屋四郎兵衞といへるものゝ系統是なり。又その支族に新五といへる者あり。新五が大樋町に住せしことは前記貞享元年の梅染に關する上申書中に見え、その子孫に理兵衞・新助などあり。新五は曾て宗家の後見たりしことあるが故に、館紺屋に傳來せる藩侯の親書はその家の保管することゝなれり。 以上 今度帷子共染させ候處ニ沙汰之限、惣不念を入事不相屆候。向後森本こんや一人として念を入染候て可上候。手傳雜左の事者、惣こん屋中として可仕候也。 慶長三 卯月廿一日在印(前田利家) もり本こんや まご十郎殿 〔館紺屋傳書〕