又龜甲屋といふものあり。代々通稱を與助といひ、森下町に住して染工を業とせり。貞享元年の文書中紺屋棟取に與助あるも亦是なり。その家系に關しては從來傳ふる所一ならず。越登賀三州志古墟考には、金澤の染工龜甲屋與助は河北郡森下の殿館にありける龜田大隅岳信の實子なりしを、前田利常が憐みて町人となしたるものゝ由與助由緒帳に見えたりといひ、又森田盛昌の記したる三壺記の朱書には、寛永十七年七月龜田鐵齋の子權兵衞は金澤にて盜賊の爲に害せられしが、その妾腹の一子は奧村伊豫守の家にて成長し、後に町人となり、龜田の田字を變じて甲となして龜甲屋と稱し、森下町にて染工を業とすといへり。こゝに鐵齋といふは龜田哲齋高綱のことにして淺野侯に仕へたりしものとし、三壺記によれば權兵衞はその子にして浪人たりしが加賀に來仕せしものなるが如し。而して高綱の父は柴田勝家の臣溝口半左衞門宗俊にして、宗俊は龜田岳信の義子となりてその氏を改めたるものなりといへば、與助を岳信の遺子なりとするものと權兵衞の子なりとするものとの兩説は時代に於いても大なる相違あり。案ずるに森田盛昌の説がその典據を知らざるに反して、越登賀三州志は與助の由緒帳に基づくといへば信ずるに足るものゝ如く、吾人は館紺屋が森下より起りたる事實に鑑みて龜甲屋も亦森下にありてその業を學びしものなるを思ふ。いづれにしても龜甲屋が龜田氏の出たることは誤なかるべし。 又七高屋といふものあり。初め金澤安江木町に在り、後に仁隨寺前に轉じてその業に從へり。七高屋の祖又五郎が越中に在りて、天文二十三年正月二十八日寺島職祐より次郎紺屋三郎九郎なるものゝ跡職を相續せしめられたるに起り、永祿三年十二月晦日附寺島職定の判物に至り宛名を質高かたへと記されしも、尚次郎紺屋又は二郎紺屋の名を混用せり。その金澤に移りし時期は明らかならずといへども、前田利長の襲封せし時之に伴ひしものにはあらざるか。龜尾記に『七高紺屋とて近年迄仁隨寺前に居住し、今は大椿堂といふ筆工となり、七高屋平三郎といへり。』といへば、その著者柴野美啓の初年たる寛政・享和の頃までは業を繼續せしなるべし。