古刀期に於ける加賀の刀劍が、殆ど全く來系に屬したることは既にこれを第一編に述べたり。而してその末期に在りては鍛壇の形勢頗る落莫蕭條たるものありしが、慶長に入り藩侯前田利長が當國に居住せる藤島系の清光または陀羅尼系の勝家・家重等を起用すると共に、當時恰も美濃より移壇したる兼若・兼卷等を保護奬勵するに及び、俄然として活況を呈したりき。而もその製作せられたる刀劍は、未だ古刀期の作風を脱せずして實用に供するを第一の目的とし、且つ各工皆特殊の傳統を固執したるが故に、在來の工人と美濃派の工人との相違頗る明瞭にして、後代に於けるが如く、兩派の近似混同を來せるものと、大に趣を異にしたるを見る。 既にして元和に入り、偃武太平の時代となりしかば、刄文の華麗を欲求するの傾向を生じたりしが、しかも戰後尚日を隔つること遠からずして、全く實用の適否を妄却し去れるにあらず、所謂華實兼備の作品を要望したりしなり。而して加賀の刀工中この風潮を最も能く洞察せるを甚六兼若とし、彼は本來の關傳を變じて相州傳風の箱がゝれる大五の目亂を工夫し、以て世人の好尚に迎合したりき。彼が元和七年受領して越中守高平と稱するに至れるも、亦その創案せる華美の刄文が激賞を得たりし結果たらずんばあらざるなり。是に至りて加賀新刀の完成を見る。