この頃に至りて注意すべきは、刀工の作風が單一化したることなりとす。即ち元和以前の鍛刀は各派その師傳を尊重し、これを系統的に判明するの極めて容易なること前述の如くなりといへども、寛永期に至るときは越中守高平を初とし、諸工概ね世相に追隨し、衆俗の嗜好に迎合すると共に、比較的造法の利便なる關傳を採用し、その本來の傳統を放棄したる一樣の加賀物の完成に精進せしかば、漸く在來派と美濃派と接近して鑑別頗る困難となるに至れり。所謂加賀物の形式は、地鐵の組合せは關傳により、刄文は相州風の大五の目亂又は備前風の丁子亂の如き華麗なるものをいふ。而してこの兩派混同の最も顯著なる一例は之を家忠に於いて見るべく、家忠は元來古刀期の橋爪系家次の流末を承くるものなるに拘らず、時代の推移に伴うて兼若流に走りたるものならんか、殆ど兼若と區別するを得ざる家忠を屢見ることあり。但しこの間に在りて尚古傳を尊重せるもの絶無なるにあらず。清光と兼卷との如きは敢へて世態の傾向を顧慮することなく、各固有の傳法に執着したるが故に、その作品を系統的に區別すること比較的に容易なり。 下りて延寶に及び、刀劍は益實用より離れ、一般の美術工藝品と同視せらるゝに至り、而してこの傾向を最も能く具現したる刀工に辻村四郎右衞門兼若と出羽守高平との兄弟並びに洲崎四郎兵衞家平あり。四郎右衞門兼若は今日世人の擧つて名工と認むる者なるが、かくの如きは太平時代に於ける武士の感賞の延長と見るべく、かの大坂の助廣・眞改を褒賞すると同一事情によるものと解せざるべからず。從つて日本刀の本質たる鋭利を尊重する點より觀察せば、四郎右衞門兼若如何に巧手なりといふとも、天正の四方助兼若、慶長・元和の甚六兼若に比して遠く及ばざるものあるべし。當時の作風は之を前期に比するときは、姿態益優美となり、地鐵の精美と刄文の華麗と彌加り、大坂新刀の影響を多分に受けたるものすら出現して、刀劍本來の實用的使命を忘却するに至れるものなるが、全國的に華美の風の流行せし時代なるが故に、かくの如きも亦止むを得ざりしなるべし。當時尚優柔なる世相に墮せず、多數佳良の作品を殘したる勝國・清光・炭宮の諸族の如きありといへども、鍛作上鐵地肌の寛永期に比して著しく精美に赴ける點は共通なり。從ひて鍛錬の技術自體より批判するときは、寛永期に比して更に進歩せしものといふべきなり。