前記の如く延寶以降鍛作に變化を生じたることも、畢竟ずるに刀劍の製作が不振に陷りたる一面を表明せるものなるべく、太平の世態久しきに亙るにつれ、舊作品の貯藏せられしもの漸く多く、新製の需要次第に減じたるを以て、この難局を打開すべく努力したる結果、人目を惹くが爲新奇を衒ふの必要を生じたるにあらざるか。四郎右衞門兼若等が刄文に一工夫を凝らしたるも、亦同じくその窮餘の一策なりしやも知るべからず。而して此の鍛壇の競爭に敗れ生活の脅威を感ずるに至れるものに長兵衞清光あり、六藏守種あり。前者は延寶年間に、守種は貞享年間に非人小屋に收容せられて藩の給養を受けたるは周知の事實なり。 當時刀工の階級はその手腕の巧拙に從ひて三等に分かたれたり。即ち貞享元年八月の鍛冶位付調書に據れば、兼若・勝國・高平・吉家・勝家、非人小屋に罷在清光・兼則を上作とし、光國・友重・家平・信友を中作とし、守種・幸昌・兼裏・越中清光・二代忠吉・信貞を下作とし、藩が彼等に鍛造を命ずる場合に與ふる工賃も亦この品等に應じ、享保五年四月の打料等詮議書には、上鍛冶の刀製作料は銀三枚、脇指は銀二枚と定め、中鍛冶は上鍛冶よりも一割を減じ、下鍛冶は中鍛冶よりも更に一割を減ず。この工賃は所用の炭代を含むも、地鐵の原料は藩より交附する慣習にして、刀には鐵二貫目、脇指には一貫八百目を與へたりき。而してその鐵が何れの所産なりしやを明らかにせざるも、之を大坂より購入せるは元祿七年十月の金澤町會所勤方に、『當地鍛冶共御道具被仰付候節、大坂より取寄申鐵の殘、古物裁許足輕え入帳に記相渡申候事。』といへるによりて知るべし。