次いで元文・寛保・延享・寛延を經て寶暦に至るときは、刀工の衰廢極度に達し、他業に轉ずるもの續出し、纔かに家職を維持するものも糊口に窮したる結果藩の合力を求めたるに、藩は之を容れて寶暦九年以降毎歳切米二十俵を各工に與へ、且つ技術に精勵なるものを賞して三人扶持を給して之を保護したりしが、當時の刀工僅かに泰平(初代)・幸昌・信友・國平・清光・勝國の六人を數ふるに過ぎざりき。しかも窮乏せる藩の財政は久しく之を繼續するに堪へず。明和六年には減じて銀四百目・二人扶持とし、文化八年には三百八十目とし、文政九年には三百四十目とし、後更に之を三百目に減じたりしことは、文久三年清次郎清光の技量拔群なるを賞して、合力銀三百目の外特に百三十目を加賜すといへるにて之を知るべし。 松戸七郎泰平(初代) 木下藤右衞門幸昌 杉本太兵衞信友 國平橘藏 清光助四郎 勝國善太郎 右之者近年及困窮、其内にも未御扶持不被下者共者、別而職筋難取續に付、舊冬奉行中より願之趣有之候に付、御細工奉行・御武具奉行え御家老衆より御詮議之上被達御聽候處、先達而當春御救可被仰付旨被仰出候上、尚更御細工奉行・御武具奉行委細願之通、鍛冶壹人に毎歳米二十俵宛被渡下候條、御用之品別紙之通可申付旨御家老衆被仰渡候。先以近年諸事御省略之御時節に候處、御國に往古より罷在候職筋不憫者共故、退轉爲不仕如斯結構被仰付儀、寔難有御慈悲冥加を奉存、向後職道精誠專一に心得、以子弟家事取立御用に相立候而可相勵候事。 卯六月(寶暦九年) 〔藤江氏文書〕 ○ 寶暦九年には結構なる御書立を以、毎歳御切米二十俵宛被爲下置、爲御冥加山刀十挺宛打上納め申候處、明和六年には右御切米二十俵は仲間一統より御取上之上、毎歳銀子四百目宛を被下置候事と相成、御山刀も八挺宛に減じ奉打上候處、銀子之外に二人扶持御下渡被仰付候。文化八年の御省略には仲間一統に被下置候銀四百目之内二十目宛之御減少被仰渡、文政九年に又候一割引と仰付相成候に付、一統之者共立而御請は難澁之由申立候處、向後五ヶ年之事に被爲仰渡候故無據奉畏候。然るに其後御引直之儀奉願上候得共御聞無之、毎歳銀子三百四十匁宛に而御定式御用相勤申上候。 〔鍛冶舊記〕