かくの如き鍛壇不振の時に當りて異才二代松戸泰平を出したるものは頗る奇とすべく、彼は加賀藩の刀劍研究家孁牛軒神戸盛矩の後援を得て、遠く延寶以前の古傳鍛法を研究し、遂に寛政の末に至りて加州新々刀の基礎を確立せり。今その作品を觀るに寛文頃の上作に比して決して遜色なきを知るべく、その非凡の手腕に轉た敬服せずんばあらず。泰平亦子弟の教養に力を致し、木下甚太郎兼久・杉本吉九郎信政・松戸善太郎勝國等の良工を出し、神戸盛矩も亦鍛法を泰平に學び、その鑑識的知見を廣めて近古鍛法刀劍得失考入門を著し、又加越能三州鍛冶系圖を改定せり。泰平と盛矩との二人は實に新々刀復興期に於ける斯界の恩人として特筆すべきものとす。既にして文化中外寇の警を傳ふるや、海内漸く騷然、藩に在りても刀劒製作の必要新たに起りたるものゝ如く、天保元年鍛刀の資材に就いて覺書を徴したるもの今に存す。その提出書には國平・清光・信政・勝國・兼久・幸昌の外、移入の工人信右・貞之二人を列記せり。蓋し當時に於ける工人の全數なるべし。 覺 一、御刀身一腰付鋼二貫目、炭十八俵 一、御脇指一腰付鋼一貫五百目、炭十三俵 右入用高如此に御座候。以上。 寅八月十日(天保元年)洲崎藤三郎(國平) 藤江小次郎(清光) 杉本吉九郎(信政) 松戸善太郎(勝國) 木下甚太郎(兼久) 木下藤右衞門(幸昌) 長井與三兵衞(信右) 尾木長右衞門(貞之) 御町會所 〔國平氏文書〕