勝家は古刀紀より繼續したる刀工なるが、慶長以降同銘二代を襲ぎ、寛永の頃に及びてその跡を絶ちたるが如く、その住所は不明なるも橋爪系の本場たる能美郡能美村にあらざりしかと思はる。この勝家に就いて注意すべきは、從來の刊本が之を伊豫大掾橘勝國の二男なる善八郎勝家と連續したる關係ありと誤認したるもの多く、新刀紀の勝家同銘五六代に及ぶと記せることなりとす。然りといへども寛永の勝家絶えたる後貞享の善八郎勝家の出づるに至るまで、その間約五十年を隔て、且つこの勝家は藤原勝家と銘じ、後の陀羅尼橘勝家と切るものと明確なる相違あり。而して慶長の勝家の作風は古刀の域を未だ脱せず。反り淺きものと中反りのものとあり。身幅稍廣く、切味本位のもの多く、地鐵は板目肌にして白け肌混りざんぐりとし、刄文は五ノ目亂多し。その一に賀州住勝家と銘じ、長さ三尺五寸三分の反り高き大太刀にして、慶長十七年二月吉日の裏銘を有し、五ノ目亂盛なる出來物ありき。 家重の初代は慶長の頃能美郡能美村より轉じて金澤に移壇したるものなるべしと思はる。その同銘は三代繼續したるも、寛永以前と認むべき作品殆ど絶無なり。寛永以後の家重に在りては、當時の家忠に似たるもの多く、その銘は賀州住藤原家重と切り、而して三代善三郎家重は寛文元年伊豫大掾橘勝國と改銘せり。 初代勝國は通稱を松戸善三郎といひ、三代家重が寛文元年伊豫大掾を受領して橘勝國と改めたるものなること前に言へるが如し。この勝國は陀羅尼系中隨一の名工にして、その得意とする三本杉の刄文は孫六兼元に類似するを以て、古來奸商の爲に磨上げられ又は僞銘を切られて兼元に化したるもの多し。その作風、造込概ね本造りにして反り淺く身幅廣く、重ね薄く、鎬幅狹く、地鐵肌は小板目能く詰みてすみ入り、鎬寄り柾の流るゝもの多く、鎬地は柾目強し。刄文は匂締りたる三本杉又は末關風の尖り五ノ目亂多く、稀には直刄或は沸匂深き大亂等あり。而してその三本杉刄は家重時代には尚未熟のもの多く、勝國時代に及びて完成せるものゝ如し。當時關系の巨頭たる兼若一族は、本來の古傳を棄てゝ流行に走りしが、之に反して勝國が父祖以來の家次傳を改め、濃厚なる關傳を吸集したるものは實に興味ある問題とすべし。この勝國の銘は伊豫大掾橘勝國と雅趣横溢せる鏨痕を印し、偶陀羅尼又は多羅尼を冠するものもなきにあらず。その遠逝は寛文十二年六月八日に在り。因に言ふ、江戸時代の刊本には初代勝國を慶長頃として受領なく、寛永の二代・寛文の三代共に伊豫大掾橘勝國と稱すとすれども、こは全く誤謬にして寛文以前に勝國あることなく、且つ伊豫大掾は初代の外にあらざりしなり。