橘氏を冐せる勝家は、初代勝國の二男にして、通稱を松戸善八郎といへり。その作風は二代勝國に同じく、整然たる三本杉刄を得意とす。銘は加州住陀羅尼橘勝家若しくは加陽金府住陀羅尼橘勝家と長銘に切り、元祿五年に歿せり。この勝家には子なくして後系暫く斷絶したるも、二代勝國の二男松戸七郎之を再興せり。享保五年の鍛冶取調書に載せられたる勝家是にして、その作品は尠きも、技倆初代勝家に比して劣らず、小杢目能くつみ、澄みたる地鐵に匂本位の小錵付き、足入りの五ノ目亂を得意とす。銘は初代に比し大銘に切るものゝ如し。 二代橘勝家は享保十五年の頃名を泰平と改め、寶暦十二年七十二歳を以て歿せり。二代泰平は同じく松戸七郎といひ、延享元年に生まる。この時鍛壇の衰運最も甚だしかりしが、彼は獨力奮鬪加州刀の復興に精神を傾倒したるものゝ如く、當時の刀劍研究家神戸孁牛軒等の後援の下に、享保以降廢絶したる勝國又は兼若の傳法を鋭意研究して、寛政末年に至り遂に加州新々刀の基礎を確立するの功績ありたること前に之を謂へるが如し。然るにその子泰定は巧手なりしも早世し、その刀系を斷ちたるもの最も遺憾とすべし。二代泰平の作品は、姿良く、地鐵能く錬れ、その傑作に在りては寛文頃の一流工人に逼るものあり。銘は陀羅尼橘泰平と切るものを多しとす。 光國通稱は忠助、慶長の善三郎家重の嫡男にして家を襲がざりしものと言はる。同銘二代を經、享保頃の光平に至りて跡を絶てり。光國の作品は未だ之を見ず、從ひてその作風を知る能はず。但し享保五年光平の由緒書に、高祖父光國は前田利光(利常)の時奧村因幡を以て諱の一字を拜領したるものなりと記せば、庸劣の工人にはあらざりしなるべしと思はる。