家忠も亦慶長の善三郎家重の子にして、通稱を吉兵衞といひ、家を洲崎と稱す。その作品の一に寛永八年のものあり。明暦元年歿す。二代家忠亦吉兵衞といひ、寛文十年歿す。初代・二代共に巧手とし、地鐵は杢目肌精緻にして強く、鋭利なる實用刀を造り、而して陀羅尼派と稱するも、作風一族の勝國と似ず、刄文の箱亂・逆丁子等却りて異系に屬する兼若特に又助兼若に共通するもの多し。又直刄の傑作な手掻(テガイ)物に類するあり。從ひて刄文の技巧を以てすれば初代二代家忠は當國の刀工中最も雄なるものといふべし。銘は二人共に賀州住藤原家忠と切り、古人は稍太きを初代とし、稍細きを二代と定めたるも、亙に太きも細きもありて區別すること困難なり。家忠の一門は寛永より寛文に至る間大に繁昌し、二代の弟と言はるゝ七左衞門家忠あり。この家忠は大聖寺に住し、作品を遺すこと僅少なるも、稀に大和物の概ある直刄の雄作あり。同じく弟と稱せらるゝ吉右衞門吉家あり。初名は吉重。その作に陀羅尼藤原吉家の銘あるものあり。又從弟と稱せらるゝ六兵衞忠吉ありて、同銘二代貞享に及び、又門人に家廣あり。凡べて作風家忠に類似するも上作少し。 洲崎氏三代を家平とす。通稱を四郎兵衞といへり。寛文末年より起り天和三年に歿す。その作風初代・二代家忠に比し、地鐵一層精美となりて無地の如きもの多く、刄文も概ね華美となれる傾向ありて、實用上不安の感あるもの往々なきにあらず。銘は稍細く賀州住藤原家平と切る。こゝに注意すべきは從來の鍛冶系圖が寛文・延寶の四郎兵衞家平と享保の四郎兵衞家忠とを同一人なりと誤認し、遂に前者を省きて後者のみを掲ぐるに至りたることゝす。然れども最近發見せられたる洲崎家の記録、並びに寛文十二年及び延寶九年の裏銘を有する四郎兵衞家平の作刀により、その誤謬なることを確認せり。次に二代家平に貞享以降の吉兵衞あり。是亦從來の系圖に寛文頃とし、吉兵衞家忠の子と爲せるは誤謬にして、四郎兵衞家平の後を承けたるものとすべし。二代家平には刄文本位の駄作多く、その銘は初代に比し著しく大銘にして、賀州住藤原家平と切り、時に家平と二字に切ることあり。