二代家平は享保の初年に至りて名を國平と改め、同十七年に歿す。その子吉右衞門家弘繼いで二代國平となる。その作品の遺るもの少し。寶暦八年歿す。次いで明和・安永の頃に三代國平橘藏あり、文化・文政頃に四代國平藤三郎あるも、共に作品の見るべきものなく、是等代下りの國平と思はるゝ鎗及び山刀等は間々存す。文久前後の五代吉郎國平に至りて僅かに遺作を發見するも、作風當時の一般加州物と異なる所なく、その技倆も優秀ならず。 洲崎氏最後の刀工を幸次國光といひ、彼は慶應三年父吉郎の後を受けたるも、その國平を襲銘せず。作風は吉郎國平に似て上作ならざるもの多し。明治廢刀の後普通の刄物鍛冶となりて、大正二年歿せり。 寛文・延寶の四郎兵衞家平と享保の四郎兵衞家忠との別人なることは前に言へるが如し。享保の家忠は吉兵衞國平(二代家平同人)の養子たりしが、後に吉兵衞に實子吉右衞門の出生したるを以て國平を繼承する能はず、寛文末年以來斷絶したる家忠の銘を復活して分家したるなり。然るに享保五年の鍛冶取調の際、恰も初代家忠以來連綿たる業系を承くるものゝ如く記され、こゝに錯誤を來すの因を爲せり。この後代家忠の作品は殆ど傳はらず。 吉郎國平の門人に押水甚藏正國といふものあり。藩末慶應頃の作品多しといへども、作位上らず、概ね國光に類す。