在來派の第四に信長系あり。 初藤島友重に相傳二三六藏 ━━守種━━━━━━━━守種━━━━━┳━━守種 代代┃代貞享頃 ┃ ┃二代守種門人 ┗━━盛種 貞享頃 この初代守種は系圖に據れば應仁頃の信長の後系とするも、年代的に多大の距離あるのみならず、その鍛法に信長傳を認むること能はず、特に藤島友重に相傳すと自稱する點などに關し疑問なきこと能はず。思ふに絶滅久しきに亙りたる信長の系圖を拉し來りて、之を己の祖先たるが如く裝ひしものにあらざるか。今之を現存の作品により斷ずるに、守種は寛永の頃より貞享の頃に至るまで同銘二代存續したるが如く、貞享四年十一月非人小屋裁許の口演書に、『先頃刀鍛冶守種六藏非人小屋え御入置、今以兄弟罷在』といへば、六藏守種が産を喪ひて笠舞に收容せられたること清光長兵衞の例に同じく、是に至りて刀系絶滅したりしなり。守種の手腕は凡庸にして作品尠く、往々薙刀等を見、その銘は賀州住藤原守種又は單に守種と切る。 新刀紀に於いて他國より移壇したる刀工の第一に兼若一族あり。家を辻村と稱し、美濃關住にして志津兼氏の末裔と稱する兼若より起る。加賀の兼若が藩政時代を通じて士人の好尚に投じ、今も尚愛刀家の賞贊を博する所たるは言ふまでもなく、その系圖は即ち左の如し。 初四方助初二甚六、慶長元和頃 兼若━━━━━━━━━━━━━━兼若━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ 代天正頃加賀へ來住代元和七年越中守受領改高平┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃四郎右衞門、三代兼若 ┣━景平 ┃寛永五年頃改銘 ┃ ┃越後守受領 ┣━有平 ┃寛永頃 ┃ ┃四又助五四郎右衞門 ┣━兼若━━━━━━━━━━━━━━━━┳━兼若━━━━━━━━━━━━━━━┓ ┃代延寶五年歿┃代延寶兼六頃正徳元年歿┃ ┃┃┃ ┃五郎右衞門、萬治頃江戸に移り┃傳右衞門┃ ┗━清平稻葉丹後守の抱鍛冶となる。元祿┣━高平┃ 頃まで長生┃元祿二年頃出羽守受領頃┃ ┃┃ ┃又助門人、荒木八郎┃ ┗━則家┃ 萬治頃┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃六甚太夫七助太夫 ┗━兼若━━━━━━━━━┳━兼若 代元祿享保頃┃代三十七歳の頃逐電 ┃ ┃甚太夫甥、四郎三郎 ┗━國重 享保頃 兼若造刀金澤市上埜嘉兵衞氏藏 兼若造刀 高平造刀金澤市富樫亮氏藏 高平造刀