兼若の加賀に入りたる初世を四方助とし、その美濃よりこゝに來れるを天正の頃に在りとするを通説とす。一説に本國を尾張犬山とするものあり。然れども現存の犬山住兼若と銘するものを見るに、時代下りて寛文乃至元祿と見られ、且つ手腕凡庸にしてこの兼若と格別の差あり。思ふに研究を經ざる江戸刊本に誤られたるものなるべし。四方助兼若の作風は純然たる美濃傳にして、姿は反り稍淺く、身幅廣く、元先の差少く、重ね薄く、鎬幅稍狹く、中切先延び心にて、地鐵稍ざんぐりとするも澄み心地良く、板目に組み、鎬地柾目となり、刄文五ノ目亂れ足入りに匂深く、小錵盛にからみ、砂流し掃掛多く時に金筋現れ、鋩子も淺く亂れて返り掃掛る等、その働きに遺憾あることなくして志津に髣髴たるものあり。銘は二字にして、兼の字は魚兼と稱する關風の書体を以て切るもの多き如く、その代表的なるものに慶長九年の一作あり。四方助兼若の歿年は不詳なるも、恐らくは慶長末年にあるべし。 二代甚六兼若は兼若系中隨一の名工なり。舊來の系圖にはその越中守を受領して高平と改號せるを寛永元年に在りとするも、作品より見れば元和七年より之を銘じたること明瞭なり。近來元和初期の年號ある高平を散見するも確實性を缺けり。甚六兼若の作品中慶長のものに在りては初代四方助に類し、好みて二本樋又は三本樋を掻き、刄文は五ノ目亂を多しとするも、時に逆亂を混ずることあり。地鐵の精美にして姿態の均整せること言ふを用ひず。思ふに當時は父四方助と共に鍛造し、若しくは父の代作を爲したることあるべく、而してその雄作は古來多く志津に化せしめたるものあるべし。甚六兼若の元和に入り、若しくは越中守高平となれる後は、徐々に關風より脱却し、新刀の特色を顯著に發揮する傾向あり。即ち地鐵稍疎となり、刄文華麗に赴き、五ノ目亂より轉じて箱亂を開拓し、或は洲濱亂の前提たるべき所謂兼若亂の範を後世に貽せり。之を要するに彼は加賀新刀界の先驅者にして、普く世人の賞贊を得、遂に酬いられて官名を受領するに至りしなり。その銘は兼若時代に在りては賀州住兼若造と六字に切り、三代以下の五字銘に比し書体著しく雅味を有し、その年號の最も古きものに慶長十四年二月の一作あり。又甚六の作品中慶長十六年三月日及び慶長十七年十月二十六日の二刀は、前に言へる慶長九年の四方助と共に、慶長中の三作と賞美すべし。而して受領の後は越中守藤原高平と多く切る。その歿年は不詳なるも、高平銘の最終と目せらるべきは寛永四年に在るを以て、略その時期を推知すべし。