三代四郎右衞門兼若は越中守高平の長子なり。その賀州住兼若造元和五年八月又は元和七年八月吉日と切れるものはその作なり。通稱四郎右衞門。寛永五年の頃兼若の銘を弟又助に讓り、己は藤原景平と改銘し、承應三年八月の作を見るを最終とす。歿年不詳。その前半の作品は父高平に共通し、往々志津に類したる傑作すらあれども、後半には世潮に從ひたるものなるか、平凡なる一般の新刀に墮したり。景平は慶長初年に生まれ、元和の頃既に成年に達したるを以て、父の代作を爲したるは當然にして、元和裏銘の兼若又は越中守高平の作中には必ずや彼の代作に成れるもの多かるべく、特に彫物に長じて、高平の作中彫物あるものあるは彼の手工によると認むべし。故に從來世人稍もすれば景平を凡工となせども、現に今世に存する景平銘のものを以て彼の價値を定むるは皮相の見解と言はざるべからじ。從來の刊書皆景平が兼若たりしことを言はず。然りといへども享保五年正月の甚太夫兼若の由緒書に、『三代景平四郎右衞門。四代兼若又助實は高平之三男之處、景平之養子に相成』といふを以て、景平も亦一時兼若の世代に列したるを察すべきなり。