四代又助兼若は慶長十七年に生まれ、延寶五年正月六十五歳を以て歿す。又助は寛永五年の頃兄四郎右衞門の兼若の銘を繼ぎ、爾後五十年の長期に亙りて多くの作品を貽せり。その初期の作には徃々にして尚關風を混ずるものあるも、中年以後純然たる加州新刀の特色を發揮し、地鐵の鍛錬徐々に細美となり、箱亂は一層鮮かに、或は逆丁子刄を創造せり。彼は歴代の兼若中最も多作にして、玉石混淆の感あるを以て、之を目して凡工と評する者尠からざるも、その實用的見地よりすれば、古來郷土に於いて名工と稱せらるゝ五代四郎右衞門兼若に優る所あるべし。その銘は賀州住兼若と切り、五代の五字銘と區別すること困難なるもの多し。 兼若の五代は四郎右衞門なり。幼名四方助。その兼若を襲銘せるは延寶五年父の歿後なるも、寛文年間の兼若作には四郎右衞門が又助に代りて鍛作せしもの多かるべし。彼の作品は前代に比し小杢目肌を益精緻ならしむると共に、未だ前代に無かりし純然たる柾鍛を案出し、刄文に於いては逆丁子を完成し、又は華麗人目を驚かす洲濱亂を燒くに成功して名工の譽を得たるも、尚初代・二代の作に及ばざること遠し。その銘は賀州住兼若と五字銘に切ること多く、稀に賀州住辻村四郎右衞門尉藤原兼若造と長銘に切ることあり。その元祿年間に至りて銘の書体一變するは、恐らくは子甚太夫の代銘によるにあらざるか。寶永八年五月歿す。 六代兼若は甚太夫と稱し、享保前後の兼若はこれに相當す。その作品多からず、技倆亦父より劣り、地鐵硬くして無地肌の如きものあるも、直刄能く締りて實用に適するもの間々あり。同時代に於ける當國の鍛工中依然上列に在りとすべし。甞てその通稱甚太夫を神太夫に作りて譴責を得たりと言はれ、亦その作品中『家傳加黄金鍛之』と添銘を加へたる如きその意圖の那邊に在りしかを知らざるも、鍛壇不振の際人の視聽を引くの策にはあらざりしか。甚太夫の銘は賀州金澤住藤原兼若と長銘に切ること多く、父祖の銘振に比するに書体俗なるに近し。その終焉は明らかならざるも元文の末年頃にあるべし。