七代の兼若を助太夫とし、その作品は殆ど傳はらず。世上兼若の僞物を指して助太夫の作なりとするものあれども、鍛壇衰運の絶頂にありて實に彼の造りしもの極めて尠かりしなるべく、未だ確實なるものを見る能はず。その三十七歳にして逐電し、又は轉業せりと傳ふるは生活上已むを得ざるによりしものなるべし。是に於いて辻村家の刀系斷絶す。 叙上兼若の世代は、三州鍛冶系圖所載のものに、景平を三代兼若として補ひたるものに過ぎず。然るに享保五年書上の兼若家由緒書によれば、初代四方助兼若は濃州住にして加賀に來りしことなく、當國に於ける初祖は從來二代と目せられたる甚六兼若即ち越中守高平にして、二代を四郎右衞門景平とし、三代を又助兼若、四代を四郎右衞門兼若、五代を甚太夫兼若と序次し、しかも高平と景平とにはその初銘の兼若たりしことを記せず。是を以て五代甚太夫若しくは四代四郎右衞門は、三代又助を以て兼若銘の初代と考へたるが如し。世に賀州住二代兼若と切り、裏銘に延寶五年八月吉日と切りたるものあるは即ちこの謂にして、この二代兼若は四郎右衞門兼若たるなりとの新説あり。思ふにこの論從ふべし。 高平の第二子を有平といひ、越後守を受領す。その作品は又助兼若に類似するも、現存するもの少きは彼が早世せるによるべし。正保四年の裏銘を有する作品あり。 高平の第四子に清平あり。五郎右衞門と稱し、萬治の頃江戸に出でゝ稻葉丹後守の祿を受く。隨ひて稻葉氏の居城相模小田原の八幡山にも住し、元祿の頃まで長命す。その作品は兼若傳に加ふるに江戸康繼風を以てし、遒麗なる亂刄に妙技を發揮せり。