又助兼若の第二子に出羽守高平あり。傳右衞門と稱す。幼名又八。その作、緻密なる板目肌にして無地の如くなるに直刄を燒きたるもあれど、又好みて柾鍛を得意とし、硬涸の地鐵を以て高度の廣燒刄を現し、或は故意に掃懸砂流を附したる如きを多く作れり。伎倆平凡にあらざるも、全國的華美の風に倣ひたるものにして、實用的見地よりせば一考を要するものあるべし。この高平の出羽守受領を元祿三年に在りと三州鍛冶系圖に記したるは誤謬にして既に元祿二年二月大吉日辻村出羽守高平と切れる作品を見、歿年は不詳なれども元祿九年二月大吉日四十六歳作之と銘じたるものを存す。 その他又助兼若の門人に荒木八郎則家あり、甚太夫兼若の甥に四郎三郎國重あれども、特に記すべきものなし。 關系の第二を兼春及び兼則の一族とし、その家名を炭宮氏と稱す。 炭宮祖初竹右衞門關兼春に相傳二宗兵衞三作兵衞 秀勝━━━━┳━兼春━━━━━━━━━━━━━兼春━━━┳━兼春━━━━━━┓ 加州住┃代永正頃代┃代┃ ┃┃┃ ┃┃惣右衞門┃ ┃┗━━兼治┃ ┃┃ ┃┃ ┃初兵衞右門二助次三作兵衞四作之丞┃ ┗━兼則━━━━━兼則━━━━━兼則━━━━兼則┃ 代永正頃代代代金澤觀音下住┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃四八兵衞 ┗━兼春 代末退轉 上記の系圖に兼春・兼則共にその初代を永正頃とし、四代累銘を有すとせるも吾人は之を信ずる能はず。今作品より察するに兼春と切り天正頃なるは竹右衞門なるべく、賀州住炭宮兼春と切り寛永頃なるは宗兵衞なるべく、加州住藤原炭宮兼春承應三年八月又は炭宮兼春以完粟鐵作之など銘ぜるは作兵衞又は八兵衞にて三代累銘なるが如し。又兼則も同じく三代にして加州炭宮兵右衞門兼則と切れるは天正頃とし、加州住藤原兼則とするは寛永頃にして作兵衞なるべく、加州全澤住炭宮兼則元祿十三年二月十一日又は加州金澤觀音下住炭宮兼則とせるは作之丞なり。又別に賀州住炭宮兼法寛永十五年二月二日など切れるものあり。これ恐らくは兼則と同人なるべし。 この派に屬するものは、概ね古刀の風格を有して、刄文の華麗を誇る加州物に浸染せず。兼春に在りては三本杉を燒くに長じ、又兼則は小沸能く著きたる直刄・丁子匂足入りを得意とし、その逸品は青江物に類するものあり。地肌鐵は小杢目鮮かに、克く緊縮して幾分の軟性を有すること等は兼若の普通作を凌駕するものといふべし。炭宮物は一般に卓絶せる斬味を有し、特に作之丞兼則は大業物として世に知らる。