關系の第三に兼卷あり、敷村氏と稱す。世本に宮村氏と記せるものあるは誤謬なり。 初喜齋二五郎右衞門、高岡にも住三清藏、金澤住、寛永末年小松に移る 兼卷━━━━━━━━━兼卷━━━━━━━━━━━━兼卷━━━━━━━━━━━━┓ 代天正頃金澤に來る代元和頃代了應四年歿┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃四五郎右衞門、金澤住五五郎右衞門六養子、八太夫大皷打となり ┗━兼卷━━━━━━━━━━兼卷━━━━━━兼卷━━━━━━━喜三郎 代寛文頃代享保頃代鍛冶を止 初代兼卷が天正・慶長の頃加賀に來住したることは、前田利長の文書に『いづみかぢ・かねまき』と並記せるによりて知るべし。然れども兼卷の作にして元和以前と覺しきものは甚だ僅少にして、世に存するは寛永の兼卷即ち小松兼卷と稱せらるゝ清藏の作なり。而して從來の系圖多く寛永の金澤住清藏と承應の小松住兼卷とを別人なりとし、之を二代に作れるは誤謬にして、現存する賀州金澤住人兼卷作寛永十六年十二月吉日及び賀州小松住兼卷作寛永十八年二月日なる銘あるものを見ても、同一人なること明らかなりとし、前田利常の小松隱棲の後その地に移りたるなり。彼が承應四年歿したることは加越能鍛冶由來考に見えたり。その作品は、由緒書に濃州兼定の末葉なりといへるが如く、關風を固守して謹直眞摯、地鐵小板目能く錬れて強く、刄文は稍廣き氣味の直刄を好み、刄縁は能く掃き掛けるもの多し。然れども多作なるに因るか、間々粗笨に傾くものあり。その銘は前に言へるが如くにして、作の字に特徴あり、且つ十中八九は裏銘を附す。かの白山比咩神社に藏する三尺六寸の大作は、寛永五年清藏が壯年の時奉納したるものに係る。後代兼卷は鍛造僅少なりしにや、吾人未だ之を見ず。第七世喜三郎に至りて刀工を止め、能樂の大鼓打となり、子孫明治に及ぶ。蓋し藩の制御細工所に勤務する諸種の工藝家は、必ず能樂に關する一藝を兼習するを要したりしが、喜三郎はその餘技の爲に本業を廢するに至りしなり。