初代信友は京信國の後裔なりと稱し、天正十二年加賀に來ると傳ふるも、之に相當する作品を見ることなく、世上に多く存する信友は寛永以降に在り。而して寛永の三代茂右衞門、慶安の四代平右衞門は概ね謹直なる作品を出し、技倆兼若一族に比して敢へて遜色なく、奧村因幡守和豐所持の銘ある一刀の如きは代表的傑作にして、志津一派に誤認せらるゝものなり。然れどもこの時代の作品の現存するもの尠きと、貞享以後の後代信友の手腕が著しく低下したるとに因りて、一般愛刀家は總べて信友を下作なりと信ずるに至れり。 降つて新々刀期に入り信政あり。通稱を吉九郎といふ。信政幼にして父を喪ひ、その技を二代松戸泰平に傳習す。之を以て彼は直刄物の健實なるを好み、技倆非凡にして賞揚するに足る作品を貽せり。銘は加州住來信政作と切る。後に信友と改む。 吉九郎信友の子丈次郎信友は、杉本氏最後の刀工なり。その作風父に似て稍それよりも勝れ、匂出來の淺き五ノ目を得意とし、直刄も亦無きにあらず。その謹厚なる作風、清次郎清光と一脈相通ずるものあり。新々刀中實用的價値の卓絶したるものとして世の賞贊を博す。慶應をその全盛期とし、明治十三年に歿せり。 その他この系より出でたるものに、三代信友の二子信貞・三子信忠あり。共に寛文前後の刀工なるが、その作品佳良なりとはいひ難し。 移入派の第三に越前系あり。 八太夫、矢之根鍛冶、越前貞次門人初八太夫二八太夫三四郎左衞門、後守廣 重次━━━━━━━━━━━━━━━━━重繼━━━━重繼━━━━重繼━━━━━━━━━┓ 寛永頃加賀に來る代貞享頃代代┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃四實重繼弟初養子、喜右衞門、吉平二 ┗━重繼━━━━━━守次━━━━━守平━━━━━━━━━━━━守平 代代元國平門人、後信友門人代 この系圖に據れば、重繼の先重次は寛永の頃越前より來り、而して刀工重繼の累銘四代に亙るも、作品殆ど無し。甞て延寶・貞享と思はれ、賀州住重繼と銘じたる一刀あり。長さ二尺二寸餘、重ね厚く、鎬稍高く、反り八分許にて、箱亂に洲濱混り、小錵多くからみ、鋩子は小丸にして、一見兼若の如くなるも、地鐵稍荒れ、板目に柾混り粗く、敢へて賞美するに足らざりき。但し貞享元年八月刀鍛冶位附書上には重繼を上之部に班せり。