前記の外全く師承の不明なるものあり。その多くは他國より來住せるものにして土着のもの少く、且つ一代にして終るを常とし、間々父子相傳ふるあり。今これを左に録す。 天正の頃に在りては兼元あり、通稱彌兵衞、越前大野より來る。又兼先ありて美濃より移壇せり。 慶長の頃には包永ありて入國せり。又包長といふものあるが、包永と同人なるかも未だ知るべからず。光治も同じ頃に來り、伊賀守と號し、正景は土佐守と稱す。 元和の頃には助光ありて藤島五郎左衞門入道といひ、又守重も藤島の一族なりといふ。兼植あり、越前より移壇し、貞繼は加州住藤原貞繼と切り、アサ丸も加州住アサ丸と銘ず。 寛永の頃には信房あり、加州金澤住藤原信房と切る。長次あり、賀州住藤原長次と切る。長次の作品世に多きは同銘二代なるべきかと思はる。兼友あり、加州住兼友作と切る。重常あり、丹後守と稱す。廣高あり、越前國伯耆守廣高の嫡子にして、寛永の頃加賀に來り、天和の頃越中魚津に去る。又廣義あり、貞吉あり。元和の頃石川郡鶴來に一鐵あり、平凡の工人なりといへどもその名頗る人口に膾灸せり。その作る所地鐵板目にして膚締らず、刄文は亂・五ノ目多く、錵・匂の有無一定せず。白山靎(○)木住一鐵と切り又は一鉄(○)余助と切る。その銘振りの甚だしく差異あるは一鐵が目に一丁字なく、之を他に倚頼せしによるといはる。子孫世々農具を製し、今尚その他に一鐵を氏とする鍛冶あり。或はいふ眞に血統を傳へしものにあらずと。 明暦の頃には廣家あり。寛文の頃には勝光の能登小木に移りしあり。勝光は通稱を傳助といひ、もと越中富山の人にして、技を行光より相傳すといふ。その子も亦勝光を襲名す。貞享頃の人。又寛文の頃吉長ありて、賀州住藤原吉長と切れり。 下りて文政・天保の頃に至り、信右あつて越中福野より金澤に來住す。元は鑄物師にして、長井又は永井氏、通稱與三兵衞、又銘を和泉少掾とも切るといふ。子信義は永井保之丞といひ、文久より慶應頃の人。又天保頃に友貞ありて藤島友貞と切る。 文政の頃には又尾木長右衞門貞之といふものあり。後尾木氏を隱岐と改む。天保十一年二月の舊記に御細工所御用たりし貞之が先に出奔したりしも又復歸せしことをいへるものあり。もと江戸の人にして最も仿作仿銘に長じ、又鐔を作るに妙を極む。銘は加州住貞之又は隱岐長右衞門貞之とす。 嘉永の頃翥武ありて、泰平に似たる佳作を遺せり。翥武は加賀藩の老臣村井氏の家臣田向氏にして、餘技に鍛造に從事せしものなりと傳ふ。 この外重勝・菊平の如きあれども、その時代を詳かにせず。