加・能二國中、甲冑の工人にして最も夙くその名を知られたるものは、藩治以前永祿の頃七尾の城主畠山氏に仕へたる寶來國近なりとす。國近は明珍信家の門に入りて鎚鐵を學びたる人にして、その作面頬を多しとし、傍ら刀劍をも鍛へて、寶來平藏國近又は寶莢と銘せり。その族人に寶來民部藤原永近及び三郎國近ありといへども、後系明らかならず。前田氏の時に及びては藩初以來甲冑の必要多かりしを以て、京畿若しくは江戸の輸入に仰ぐの外、城下に於いても素より之を製作せしなるべしといへども、工人の名の後世に傳へられたるものは、眞に九牛の一毛に過ぎず。即ち金澤に在りては、元和・寛永の頃に成井勝光ありて、子孫世々業を繼ぎ、成井氏の門に松永氏ありて御細工者に列せられ、寛政には明珍宗好江戸より來りて、鶴見・兒島の二氏之より出でたる等の事を知り得るのみ。その他小松なる中屋氏の利常隱棲の頃に著れ、大聖寺なる山田氏が藩末に起らんとしたるの類、亦僅かに列擧し得べし。 中屋長途は能美郡小松の冑工なり、その作に六十二間の筋兜ありて上作に屬し、早乙女家忠に似たり。腰卷に『以南蠻鐵造之』と刻す。長途に次ぎて長家あり。八間張の上作ありて、その銘に『以和鐵鍛南蠻鐵、中屋長家作、寛文第十一寅六月吉日」とあり。又之に次ぎて長次といふものありき。 成井勝光は亦春田氏を冐せり。通稱を重兵衞といひ、京師の人にして冑製作の名手なり。父家久も亦良工にして豐臣秀頼に仕へたりき。前田利常の諸種工人を招致するや、勝光乃ち元和九年を以て來り仕を求めんとせり。然れどもその志望を達し得ざること數年に及び、將に上國に歸らんとせしに、偶人の之を藩に薦むるものありしかば、利常は十人扶持を與へき。勝光の後同名相續ぐこと三世、第五代次郎兵衞に至り、初めて號を雲海といひ、子孫皆之を襲げり。六代光尚は勘助といひ、良工にして變形の兜を作るに長じ、紋樣を鐵板に打鎚するに巧妙なること前後に匹儔なしといはる。享保・元文の頃の人にして、世人の單に雲海を以て指すもの即ち是なり。七代勘助壽尚その技父に讓らず。八代五郎九郎後勘助光友・九代勘助光友繼ぎ、安永の頃には十代勘助光永あり、文化より天保に亙りて十一代海藏後勘助光定ありき。文政十一年の藩の御細工者中、三十三俵春田細工成井勘助歳五十とあるは即ち光定なり。廢藩の時子孫尚存せしも、その技拙劣見るに足らざりしといふ。 成井氏此後號雲海勘助勘助 勝光━━┳━勝光━━勝光┳━勝光━━次郎兵衞━┳━━光尚━━━━━┳━━壽尚━━━┓ ┃┃┃┃┃ ┃┃┃┃┃ ┃弟┃弟善左衞門┃弟松永氏祖┃弟忠次郎┃ ┣━行光┗━勝定┗━光保┗━尚平┃ ┃子子子四郎兵衞子┃ ┃┃ ┃弟久之丞弟┃ ┣━吉近━━━━正重┃ ┃子子┃ ┃┃ ┃弟┃ ┗━吉久━━┳━━行保┃ 子┃┃ ┃┃ ┣━━光利┃ ┃┃ ┃┃ ┗━━忠保┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃五郎九郎、勘助勘助、實尚平子勘助海藏、勘助 ┗━光友━━━━━━━光友━━━━━━━光永━━━━━━━光定 〔甲冑良工諸家系圖〕