明珍宗好は通稱を徳兵衞といへり。その本姓を知らず。江戸に在りて明珍宗妙の門に入り、遂に技術の薀奧を極めて師の氏を冐すを許さる。寛政の頃金澤に來り住し、三人扶持を食めり。二代宗春、亦徳兵衞と稱す。宗好の子にしてその家を襲ぐといへども、手腕庸劣にして名聲を得るに至らず。宗春の子宗久三代となる。幼名徳三郎、後に源兵衞と改む。宗久幼にして孤となり、家業を傳へざりしを以て嘉永五年江戸に上り、明珍家に就きて學ぶこと三年、歸來その職に從事せり。元治以降藩末騷擾の際宗久製する所甚だ多かりしも、亦凡工なるを免れざりき。 鶴見宗壽は助九郎と稱す。文政中明珍宗好の門に學びて冑工となり、藩より三人扶持を受く。二代宗純は通稱を清藏といひ、三代宗春は市郎兵衞といふ。宗純は兄にしてその技を能くし、宗春は宗純の後を承け、最も面頬を作るに長ぜり。藩末に於いて彼等の作りし所多し。 兒島宗英は通稱を安右衞門といへり。父を金藏といひ、藩の製銃を掌り、文政二年歿す。金藏二子あり、長を安右衞門といひ、弟を宗英とす。安右衞門享和二年亦製銃工となり、文政十二年歿せしが、その時子安太郎宗直尚幼なりしを以て、宗英入りて統を承けたりき。初め宗英明珍宗好の門に入りて冑工となり、弘化三年三人扶持を給せらる。その技極めて精良、嘗て國老前田直信及び藩士藤田求馬の囑によりて、一百二十間の筋兜を製し、天下稀覯の珍品なりとの賞贊を得たり。求馬因りて之を藩侯の世子慶寧に上りしに、慶寧は大に喜び、嘉永四年更にその錣を造らしめき。是の年宗英歿し、子宗孝繼ぐ。宗孝初の名は金七、後に安右衞門と改む。嘉永六年町役の半額を免除せられ、安政元年三人扶持を給せらる。當時國情漸く騷然たりしを以て、宗孝の作る所甚だ多く、その技術も亦父の壘を摩せんとせり。之を以て藩は元治元年更に合力銀百五十目を増し、慶應元年積年の功を賞して金七百疋を與へしが、同年病みて歿したりき。宗孝の子金太郎家を繼ぎ、業未だ成らずして維新の政變に會せり。