小島宗直は通稱を安太郎といひ、兒島宗英の甥なり。父安右衞門の歿せし時尚幼なりしを以て、宗英その後を受け、宗直は後別に家を興して小島と稱したりき。弘化二年宗直武具藏附足輕となりて俸二十俵を食み、四年足輕横目となり、七年甲冑製造の技に精しきを以て細工所雇を命ぜられしが、明治元年歿せり。宗直、宗英の第二子致將を養ひて嗣となす。致將初の名は宗將、通稱爲三郎、家職を嗣ぎて武具藏附足輕となり、文久・慶應の際前田齊泰・慶寧等の甲冑を製して良工の名を得しが、維新に會して業を廢せり。 明珍治郎兵衞は大聖寺の人なり。本姓を桂といひ、諱を宗修と稱す。江戸に出で、明珍主水宗治に就きて甲冑の製作を學び、その技に精熟せるを以て、安政四年五月明珍氏を冒し、五七桐の家紋を用ふることを許さる。後藩に歸りて七人扶持を給せられ、藩主及び諸士の爲に甲冑・鍔等を製作せり。明治十四年四月四十九歳を以て歿す。 山田五郎平は家を鍛冶屋と稱し、大聖寺の人なり。藩侯五郎平に命じ、兒島宗英に就きて製冑の技を學ばしむ。五郎平乃ち隔月金澤に赴き、三年にして成業せしを以て大聖寺藩の冑工となりしが、後幾くもなく廢藩に會せり。