加賀藩に在りては彫金の技に從ふものを白銀師といひ、その最も早く著れたるは後藤琢乘なり。琢乘は東山時代の名工祐乘の玄孫にして、通稱を孫左衞門といひ、諱を光宗と稱し、前田利家の祿する所となりて、七尾又は金澤に在りしが後に京に歸れり。琢乘の從兄弟に長乘あり、法橋に叙せられ、その統を上後藤といふ。長乘の子覺乘は、通稱を勘兵衞、諱を光信といへり。寛永中前田利常之を召して三十人扶持を食ましめ、顯乘と隔年交代して金澤に下り、製作に從事せしめき。前田綱紀の代に、覺乘の子演乘あり、通稱は勘兵衞、諱は光英。演乘下後藤の悦乘と輪番金澤に下りしが、後專ら京師に在りて朝紳の家に出入し、綱紀の爲に珍籍蒐集の任に當る。その子孫京に在るもの、相繼いで藩の祿を食み、以て明治の初年に及べり。