駒井貞歴は甚右衞門と稱す。その祖小右衞門鑑虎小松に住せしが、彫金の技を好み、屢前田利常の命に應じて刀劍の裝具を製作せり。子孫小右衞門貞次・小右衞門元次・久兵衞元直・重次郎元明・吉右衞門貞直・小右衞門貞明相傳へて彫金を試みしも、未だ之を以て生業と爲しゝにはあらず。貞明の子貞歴の時始めて金澤に移り、後藤久清の門に入りて白銀職となり、三人扶持を給せられき。その系左の如し。 甚右衞門甚助久次郎門 貞歴━━━━元申━━━━元廣━━━━元定 〔金工系圖〕 駒井氏二代元申は甚助と稱し、貞歴の長子なり。初め後藤久清に學び、次いで勝木氏喜に從ひ、後に後藤東乘の門に入る。その作瀟洒にして巧妙なり。寛政十二年元申、後藤清冷及び高尾吉助と共に北野天神寄進の寶刀に裝飾す。三代久次郎元廣は文化四年御細工者となり、祿三十五俵を賜ひ、元廣の養子元定はその技未だ熟せずして家を襲ぎ、後に藩の大砲方に轉じたりき。 山川孝次は初名を山屋八十吉といふ。天保中柳川春茂の門に入りて技を習ひ、尋いで師の偏諱を受けて茂孝とへり。春茂はもと内田氏、通稱甚三郎。江戸の人にして、柳川氏四世直春の門に學び、遂にその氏を冐すことを許され、文政中金澤に來りて業に從へるなり。葢し横谷宗珉風の彫法を輸入せしは此の人に依る。孝次之を學びて能くその堂奧に達し、鏨痕優麗瀟洒、一時稱して加賀宗珉と言はるゝに至れり。文久二年藩の白銀職として二人扶持を給せられ、明治十五年歿す。 山尾氏は舊と染色を業とせり。次六に至り白銀職となり、次侶久又は侶久といひ、安政三年四十二歳を以て歿す。次六の子喜太郎襲ぎ、春理と號して技を能くせしが、慶應二年十八歳を以て歿し、叔父次六二代となり、侶延と號す。明治十年歿。而して二代次六の子次吉光侶は、大正十二年六十二歳にして歿せり。