又勝木盛定あり、與三右衞門と稱す。象眼師にして、承應の頃伏見より下りて金澤に住し、祿五十俵を賜ふ。系左の如し。その四世勘右衞門盛定は、白銀師となりて名工と稱せられ、富山侯に仕ふ。 與三右衞門與四郎與四郎勘右衞門、後半次郎 盛定━━━━━盛定━━━━━盛定━━━━━盛定 〔金工系圖〕 初代勝木與三右衞門盛定の門人に盛光あり。その系左の如し。 八兵衞惣左衞門源左衞門伊右衞門藤左衞門藤左衞門 盛光━━━━━守良━━━━━盛次━━━━━盛平━━━━━盛國━━━━━盛國 後冑工 〔金工系圖〕 小市氏は象眼師なり。その祖を三郎右衞門永政といひ、寛永六年初めて十五人扶持を給せられて御細工人となる。 三郎右衞門四郎三郎彌左衞門彌左衞門彌左衞門豐次 永政━━━━━━━永重━━━━━永次━━━━━永次━━━━━永次━━━━━永次━━┓ ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃文治猪三郎 ┗━永次━━━━━永秀━━━━━喜三郎 勝尾氏 〔金工系圖〕 二代四郎三郎永重父に先だちて歿し、三代彌左衞門永次は永政の甥より入りて家を繼ぎ、次いでその子彌左衞門永次四代となり、五代彌左衞門永次亦之に次ぐ。五代永次は初め甥半兵衞永光を養ひしも、享保四年夙く歿したるを以て、更にその弟六右衞門永信を子とせしが、亦享保十二年に歿し、而して永信の子六右衞門永信は別に家を立てたり。是を以て享保十四年、五代永次の歿するや、永光の子を以て嗣たらしめき。之を六代豐次永次と爲し、その職に勵精なる故を以て祿十俵を賜ふ。豐次永次の子豐平永光多病にして、家業を承くる能はず。勝尾氏たる文治永次七代の業系を受け、天明四年祿四十俵を賜ひ、御細工者に列せらる。文治永次亦子なく、八代猪三郎永秀をして後を承けしむ。永秀は御細工者村澤與亭次の子にして、後に通稱を勘兵衞と改む。弘化二年その技優秀なるを以て、御細工者小頭に進み禄六十石を賜ふ。安政三年喜三郎入りて統を承け、俸四十俵を賜ひ、御細工者たりしが、王政維新に際してその業を廢せり。