中居鑄物師の一人に宮崎某あり。前田利家の七尾城に治するや、天正十年召されてその地に移りしが、翌十一年利家は金澤に移りしを以て某も亦之に從ひ、邸地を木ノ新保に賜はり、明暦三年に歿したりき。この工人の名は、現に宮崎氏の系譜に傳ふるととなしといへども、江沼郡那谷寺塔婆の露盤なる寛永十九年の銘に宮崎彦九郎吉綱といふ者あれば、恐らくはこれなるが如し。某の子に彦九郎あり。諱を義一といひ、後に薙髮して一艸庵寒雉と號す。嘗て京師に至り、名越昌高に就きて鑵子製造の術を學び、その蘊奧に達す。後金澤に歸りて藩の御用釜師となり、鑄造する所多し。時に茶道裏千家の祖仙叟宗室來りて此の地に在りしが、屢意匠を寒雉に授け、大講堂・鉈・小霰等の鑵子を製せしめき。寒雉曾て宗室と相携へて蕈を城東卯辰山に探りしが、午時に至るも一の獲る所なかりしかば、二人は共に樂しまず、携ふる所の搏飯を出し默々として之を喫せり。既にして宗室誤りて之を地に墜しゝに輾轉して叢中に入りしが、寒雉はその所を探りて偶然一蕈を發見せり。寒雉大にその奇功を得たるを誇り、遂に宗室と謀り、搏飯の状に模したる三稜形の鑵子を作り、茸と琴柱を耳とし、側面に枯葉を鑄出せり。燒飯釜といふもの是にして、世に逸品と稱せらる。寒雉鑄る所の梵鐘、金澤蛤坂常徳寺に在るものは『寛文十三癸丑暦九月下旬第五日鑄師宮崎彦九郎藤原義一』と鐫し、江沼郡大聖寺町慶徳寺に在るものも同じく『于時寛文十三癸丑暦九月廿八日鑄師宮崎彦九郎義一』とし、金澤三間道少林寺にあるものは『延寶五丁巳年十二月十二日冶工宮崎彦九郎義一』と刻す。正徳二年二月歿し、少林寺に葬り、徳翁寒雉庵主と諡せらる。 義一の裔世々その業を襲ぐ。第二代を彦三郎といひ、後父の名を承けて彦九郎と稱す、諱は義治。享保八年を以て歿す。金澤高道新町心蓮社に存する梵鐘は『天和元辛酉年玄冬吉祥日、冶工宮崎彦九郎義一・同彦三郎義治』と鐫せられ、又現に鹿島郡崎山村鵜浦稱念寺に存する梵鐘は、元祿九年十一月廿八日能登郡羽坂村永教寺に寄進せられたるものにして、『冶工加州金澤住宮崎彦三郎義治』とあり。三代彦九郎は諱を尚義といひ、技術の精巧祖父義一に讓らず。今金澤木ノ新保白鬚神社に在る青銅の扁額は、白鬚社の三字を鑄出したるものにして、その背面には『享保十乙巳稔仲秋吉辰和田廸賢謹書、冶工宮崎彦九郎尚義』と鐫せらる。和田廸賢は書家にして、號を淡水といひし者なり。尚義寶暦十三年十一月を以て歿す。四代彦九郎は諱を尚申といひ、後に祖先の號を襲ぎて寒雉と稱す。其の技亦優秀にして、世に錢屋寒雉と稱するもの是なり。安永二年九月歿す。次いで五代彦九郎義二は安永四年八月を以て歿し、六代彦九郎尚行は寛政八年正月に歿し、七代彦九郎尚植は寛政十一年十一月に歿し、八代彦九郎義光は享和三年七月に歿す。皆その事蹟を詳かにせず。九代彦兵衞は越中高岡の工人なりしが、義光子なかりしを以て養ひて嗣とせしなり。後名を彦九郎と改め諱を尚幸といへり。安政四年五月歿す。十代尚義は初め次吉といひ、後に彦九郎と改む。父の歿せし時、年尚幼にしてその業を學ぶ能はざりしかば、文久三年京師に往き名越氏の門に就きしも、その歸來するや偶藩末に際し、製品の需要全く廢せしを以て京師に移り、明治十二年その地に客死せり。こゝに於て義一の男系全く絶ゆ。初め尚義の洛に在るや、元治甲子の變に遭ひ、携ふる所の書類を擧げて烏有に歸せしめき。是を以て宮崎氏の事蹟多く滅すといふ。 初代寒雉作燒飯釜金澤市今村次七氏藏 初代寒雉作燒飯釜