中居系以外の鑄物師には武村氏あり、初め備中國淺口郡武村にありしが、その邸地に一大樹林ありしを以て、人呼びて森の鑄物師といへり。永祿中長藏の時に至り、近江國栗太郡辻村に移り、先に居る所の村名を以て氏となし、天正三年長藏年六十八を以て歿す。二代市太郎家を繼ぎ、文祿五年歿す、年五十七。三代孫兵衞元和二年歿す、年五十。而して四代彌吉郎は諱を貞正といひ、慶安三年五十九を以て歿したりき。彌吉郎の子を彌三郎といひ、後彌吉と改む。諱は貞次。寛永中初めて金澤に移り、鑄造の業を開く。萬治元年前田綱紀貞次に吹屋町の邸地を賜ひて之を優遇せしが、天和三年に歿せり。六代貞矩は幼名を市三郎といひ、家を襲ぎたる後彌吉と改め、正徳五年歿す。七代貞平は幼名を彌吉郎といひ、後に彌吉となり、元文五年に歿す。八代家謹は幼名を吉三郎といひ、後に彌吉となり、寶暦九年歿し、九代貞家は幼名を宗吉といひ、後に彌吉となり、安永二年に歿す。十代彌吉貞興は幼名を彌藏といふ。安永中藩主前田治脩屢郊外に放鷹し、途次貞興の家に入りて憩ひしが、その客室に爐なきを見て之を設くることを命じ、賜ふに爐縁を以てせりといふ。文化八年歿す。十一代彌吉家次は幼名を佐一郎といひ、文化十一年歿し、十二代彌吉貞敬は嘉永中藩の火矢方隱密方を命ぜられ、文久中には三十四封(ポンド)加農砲以下大炮數十門を製造す。當時藩は武村氏の工場を以て藩の造兵所に充てんとの意ありしが、その地低濕にて佳ならざるを知り、別に鈴見村に鑄造場を起し、而して貞敬をして終始その役に當らしめき。慶應三年に歿す。子彌一郎以敬家を襲ぐ。