木越氏は、河北郡木越村の人にして、世々農を以て業とせり。享保の頃三右衞門といふもの、初めて金澤に移り木越屋と稱せしが、寛保三年に歿し、二代三右衞門は明和六年に、三代三右衞門は文化九年に歿せり。然れども彼等が生業の何なりしやは今得て之を知るべからず。四代三右衞門に至り、初めて鑄工となる。冶工の初代たりし三右衞門は、諱を正之といひ、横河九左衞門長久に就きて鑄造の術を學ぶ。正之又鐵瓶の製作に長ず。その鐵質灰青色を帶びて雅味掬すべく、一見良工たるを知るに足る。弘化二年を以て歿す。葢し三右衞門正之の時は、横河氏に長久あり、龍文堂四方安平も亦京師より招致せらるゝありて、互に手腕を競ひしかば、加賀藩の鑄造業に一大進歩を見たりといふ。二代三右衞門正光は染工横腰屋某の子なり。正之に養はれて家業を繼ぎ、技術の精良なること父に讓らず。安政の末藩の扶持を受けて御用釜師となる。文久二年歿す。金澤山ノ上町光覺寺の鐘は文政十年七月の鑄造なるが、その小工に木越三右衞門政光とあるもの恐らくはこの正光のことなるべし。三代三右衞門は誰を知らず。幼にして父を喪ひその技を傳ふる能はざりしを以て、京都に上り之を學びしが、性多疾未だ蘊奧を極むるに至らずして郷に歸り、尋いで歿したりき。四代三右衞門正次は玄濤と號し、川尻屋豐右衞門の子なり。初め正光の門に入りて鑄工となり、三代三右衞門の歿するや入りて家を襲ぎしも、時正に廢藩に際し、業勢萎靡して擅に手腕を振ふことを得ず、明治五年四十六歳を以て歿したりき。