農業に關する事項は極めて廣汎にして煩雜なり。故に今之を數項に別ち、本節先づ檢地の沿革に就きて記述する所あらんとす。 抑加賀・能登二國に於ける檢地の由來に就いては、世に往々誤謬を傳ふるものなきにあらず。例へば改作方舊例租税略解には、天正十年織田信長の有司來りて、加賀・能登の田地を丈量したりしが、偶本能寺の異變に會したるを以て、終に越中に入ることなくして歸れりと記し、政談愚言には、この年松永久秀が加賀に來りて丈量の事に從へりといひ、河合録には、その來れるを片桐且元なりとし、一書に之を木村重玆なりとせり。然れども松永久秀は既に死したる人にして、片桐且元・木村重玆も亦信長の用を爲しゝとも覺えず。されば越登賀三州志に在りてはその事を天正九年に繋け、三ヶ國の檢田使となりたるは菅屋長頼と福富行清なりとの説を擧げたるも、亦その因りて來る所を知るべからず。思ふに檢地なるものは、土地の面積と品等とを査定して租率を平準にし、以て之を知行するものゝ收入を確保せんが爲に、信長によりて案出せられたる施設たることは言ふまでもなしといへども、彼の之を實行したるは、元龜中伊勢に於いてし、天正八年大和に於いてし、九年和泉に於いてしたる等僅かに數指を屈し得るに止り、未だその征服し得たる國土の全體に及ぼすこと能はずして、夙く中道に倒れたりしものなるが故に、之を加賀・能登の如き僻陬に試みしことありとは考ふるを得ざるなり。