秀吉の時に至り、海内の田制と税制とを畫一ならしめんと欲し、信長の遺策に從ひて檢地の大事業に着手せり。この檢地は、世に天正の石直とも文祿の檢地とも稱せらるゝものにして、天正十二年十月山城國狹山郡に施行したるに初り、次第に九州・四國・關東・東北の各地に及ぼしたるものなるが、我が北陸に於いて之を實行したるは、その最も晩年に屬したりき。是を以て、加賀能美郡の領主村上周防守頼勝の如きは、天正十九年に於いて尚秀吉の法に據らず、その獨自の標準を以て檢地を封内に行ひたるを見る。以下の計算は凡べて五捨六入の法に據る。 加賀國能美郡内長田村檢地帳(表紙) 加賀國能美郡内 田方長田村 上鳥居一段二畝一石五斗(八斗カ)新衞門 上同所二段八畝九歩四石二斗三升七合五勺甚兵衞 上同所一段七畝廿五歩二石六斗五升四合二勺甚五郎 中同所三段十六歩四石五斗六升六合七勺與三郎 下同所九畝十六歩一石四斗一升六合七勺孫二郎 中鳥居三段六畝五石四斗助衞門 上同所一段九畝五歩二石八斗七升八勺四郎衞門 中同所一段九畝二石八斗五升孫二郎 下同所二段一畝三石一斗五升次兵衞 中同所一段九畝廿八歩二石九斗六升六合七勺新兵衞 上同所一段三畝一石九斗五升一針屋 上鳥居一段四畝二石一斗八里屋 中同所一段一畝廿一歩一石七斗三升七合五勺四郎衞門 上同所三段二畝四石八斗次兵衞 上同所二段九畝廿歩四石四斗三升三合四勺太郎衞門 下同所一段十九歩一石五斗七升九合二勺八郎兵衞 (以下三百三拾三項略) 畠方 上八町畠一段三畝五歩一石九升四合九勺五郎左衞門 上同所七畝十八歩六斗二升五合太郎衞門 上入町畠六畝六歩四斗三升五勺四郎衞門 上同所一段八畝一石五斗五郎左衞門 上同所八畝十四歩六斗九升九合一勺三郎兵衞 上同所一段五畝十歩一石二斗七升三合一勺はゝきや 上同所一段三畝十八歩一石一斗二升五合一針屋 上同所二段十二歩一石六斗九升四合四勺與三郎 上八町畠六畝廿六歩五斗六升二勾甚兵衞 上同所一段七畝廿歩一石四斗六升一合九郎兵郎 上同所一段五畝廿歩一石二斗九升六合三勺次兵衞 上同所五畝九歩四斗三升七合五勺八郎兵衞 上同所七畝二斗三升三合三勺宗左衞門 上同所二段四畝二石孫兵衞 上みそち一段三畝一石八斗三合三勺甚兵衞 上同所五畝十歩四斗三升九合六勺九郎兵衞 (以下八十二項略) 上田十九町十四歩段別一石五斗代 分米二百八十五石五升八合三勺 中田二十三町三段八畝九歩段別一石五斗代 分米三百五十石七斗三升七合五勺 下田十七町九段十六歩段別一石五斗代 分米二百六十八石五斗六升六合七勺 上畠三町九段九畝二十三歩段別八斗三升三合三勺代 分米三十三石三斗三合三勺 下畠三町四段二畝二十八歩段別三斗三升三合三勺代 分米十一石四斗二升七合 屋敷一町八段五畝十一歩段別八斗三升三合三勺代 分米十五石四斗四升二合三勺 田畠屋敷合六十九町五段六畝二十九歩 分米合九百六十四石五斗三升五合 村上周防守 天正十九[辛卯]年九月廿一日頼勝在判 〔事林明證〕 前掲の文書に據るときは村上頼勝の檢地は、田を上中下三等に分かつも、その斗代に於いては全然同一とし、畠は上下の二等として斗代に差違あらしめ、宅地は之を上畠に準ぜり。思ふに上中下田の斗代を一にするは、上田の竿を短くし、下長の竿を長くしたるに因るなるべし。地積の名目は、町段畝は十進法に因り、而して一畝は三十六歩より成る。是等によりてこの法の尚未だ天正の石直に據らざりしを知るべし。段の十分の一を畝と稱することは寛正の文書に已に見えたりといへば、頗る古くより一部に行はれし所なるが、この頃に在りては普く用ひらるゝに至りしなり。