江沼郡に於いても亦慶長三年檢地の行はれたることは、之を左掲の文書に徴して知るべく、その奉行人は林傳右衞門尉なり。この文書中に、今は江沼郡に屬する林村を能美郡とするものは、その地最も郡界に近きが故に古今の差異あるによるものゝ如し。また大聖寺附近の檢地に關しては菅生石部神社文書あり。その文中、山口宗永の語として御檢地と記したれば、宗永自身の檢地にあらずして、豐臣氏の施行せしものたることを知るべし。而して秀吉はこの年八月を以て薨じたるが故に、檢田使派遣は江沼・能美二郡の一部に止り、その以外に及ぶこと能はざりしなり。 賀州能美郡林村御檢地沙汰置覺書 田畠屋敷荒共に合而二十三町四反七畝八歩 分米都合三百三十九石六斗一升一合 右今度御檢地之上を以相定條々 一、六尺三寸之棹を以、五間・六十間・三百歩一反に相究事。 一、田畠並在所之上中下能見屆斗代相定事。 一、口米一石に付而二升づゝ、其外役米一切不可出事。 一、京升を以年貢可致納所候。賣買も可爲同升事。 一、年貢米五里爲百姓可相屆、其外は爲代官・給人可被持之事。 慶長三七月日林傳右衞門尉 はやし村惣百姓中 〔江沼郡矢田野村藏文書〕 ○ 當社屋敷廻九石五斗三升之事、今度御槍地え被相除上者彌無相違全可有領知者也。 山口玄蕃頭 慶長三年十月廿七日宗永在判 〔菅生石部神社文書〕 山口宗永下知状江沼郡福田村菅生石部神社藏 山口宗永下知狀