前田利家がその領内に檢地を施行したるは、天正十一年大屋助兵衞・森川善右衞門・稻本與左衞門・三島久内・山本作助・歸山藤内を領内鳳至郡に派遣したるに初る。但しこの檢地は秀吉の檢地以前にあるを以て、地積は尚大小半歩を以て記され、その目的隱田の發見と租率の整理とにありしなり。次いで同十九年、利家また長九郎左衞門・加藤石見・駒井中務少輔・板坂市左衞門をして、同郡の檢地を行はしめき。葢し利家はこの前年秀吉の命を奉じ、淺野長政・石田三成等と共に陸奧に入りて檢地の事務を掌りしを以て、こゝに至りて鳳至郡も亦三百歩一段の制に據ることゝなり、先の天正十一年の調査を改むるに至りしなるべく、且つこの年九月十二日利家がその老臣高畠定吉に書を與へて、彼が加賀・能登に於いて從事したる檢地の勞を犒ひたるによりて見れば、啻り鳳至郡のみならず領内全體に亙り、等しくこの時を以て新制に據らしめたるものゝ如し。