次いで利長・利常の治世たる慶長九年より十三年に亙りて、前田氏の檢地は越中國礪波・射水・新川諸郡に及び、元和二年には加賀の能美・石川・加賀郡及び能登の各郡を檢地し、元和六年にも亦能登の羽咋・能登・鳳至郡を檢地したること改作方御定書に見え、而して珠洲郡の檢地も同年に行はれたること之を長家文書・金峰寺文書によりて明らかにすべし。是等は何れも惣檢地と稱せらるゝものにして、その中に江沼郡の名を發見する能はざるは、既に秀吉の時に檢地を終れる爲なるかと考へらる。かくて加賀・能登の二國は、何れも三百歩一段の制に準據することゝなりたるが、越中諸郡に至りては、素より檢地の實施せられたるに拘らず、尚藩政時代を通じて三百六十歩一段の舊制を用ひたるは、その如何なる理由によるかを知るべからず。或は曰く、越中に大河多く、田園屢荒廢し、農民の負擔決して輕からず。是を以て故らに地積を寛にせしなりと。いづれにしても世人加賀・能登が三百歩一段たり、越中が三百六十歩一段たるの事實を論據として、秀吉の時巳に加賀・能登に檢地を行ひしも、未だ越申に及ぶ能はざりしなりと斷ずるものあるは誤謬なり。 定 一、今度檢地田畠一反に付而三百歩宛無相違樣に可打渡候。江川・道以下如此已前可相除事。 一、畠方折之事上中下により可相究事。 一、去年・當年新開之地打わけ帳面にしるし可上之候。並長不作同前事。 一、藏納方在々所々田畠立毛上中下見積り、有來候年貢米相違之在所於有之者、此度遂穿鑿可相究事。 一、田畠境目ふみ隱候百姓有之に付ては急度可成敗候。若此度隱田之地有之者可申顯候。爲褒美隱田之地年貢米一作分訴人に可遣候。其上踏隱候百姓家屋敷宛行、後年迄肝煎可申付事。 一、檢地之者共可爲自賄候。但ざうし薪・馬之糠わらは在所より可出候事。 一、下々禮錢・禮物取不申候樣可申付候。若猥之儀有之付而は、不寄侍小者親類共に可成敗候事。付、禮物出候百姓可爲同罪事。 一、檢地之者共荷物もたせ候人足傳馬之儀、村づたひに召連可申候。其跡之乘馬一疋宛其在所よりやとひ可申候。此外下々猥に馬に乘候事有間敷事。 一、在々所々小成物可相改事。 右條々若相違之儀於有之者面々可爲越度者也。 元和二年六月廿日 御檢地衆 〔慶長以來御定書〕 ○ 已上 御歌致拜見候。然者御知行高之内鈴(珠洲)郡松波村に而、高百石は免均帳に御座候。元和六年より御檢地御帳面と御指引相施候通。 一、三十六石五斗立壁村 一、五十五石宮犬村 但元和六年出分候故引足最前目録進之候。以上。 一、八石五斗同村 已上百石 右分に元和六年より御帳面相究申候事に候。御受領に付而一判早々御報申入候。恐惶謹言。 六月廿九日宮崎藏人 重光在判 長九郎左樣 貴報 〔長家文書〕 ○ 能州鈴(珠洲)郡金峰寺村御圖帳之事 合 六十一石七斗六升者當高 此内 十石ハ金峰寺領 一石四斗五升ハ同人屋敷 一石四升ハ長松寺屋敷 〆十二石四斗九升也 殘而 四十九石二斗七升ハ毛付 此物成四ッ五歩 右除江溝道塚燒畑、打渡所如件。 元和六年閏十二月十三日 岡田傳右衞門在判 水野小兵衞在判 上村八左衞門在判 堀伊豆守在判 淺野將監在判 百姓中 〔珠洲郡金峰寺文書〕