然るにその後檢地に關する取扱漸く變じ、古田(コデン)は假令變地の爲に地積の不足したることを申立つるも、容易に檢地を許さず。而して新開極高・畑直極高等には、本檢地を行ふ手續頗る繁雜なるが故に之を省き、代ふるに内檢地を以てすることゝせり。是を以て寛文六年の書上を見るに、唯少分の檢地を行ひたるのみとし、元祿年中には容易に檢地を執行せざるべきことを規定し、享和二年には亦檢地に關する手續を制定し、同年石川郡奧池村・内尾村に檢地あり。文政元年の勤方帳には、普通の土地不足には檢地を行はず、川崩等により村高過分に流失し、永久復舊の見込なき場合に於いてのみ詮議の上之を執行すといひ、その頃越中礪波郡久泉村及び柳瀬村に檢地したりしが、これより本檢地を行ふこと全く絶えたり。されば天保中、貧村にして實際土地の足らざるものは檢地を出願することを得と布告し、礪波郡西明村等四ヶ村が之を請ひたるときにも尚本檢地を行ふことなく、御扶持人十村出張して内檢地を行ひ、西明村に引免を許して高を減少したると同一効果たらしめ、他の三ヶ村は地元甚だしく狹少ならざるが故にその願書を撤回せしめたりき。檢地を行ひたる結果は、必ずしも百姓の期待するが如く草高を減ずることなく、却りて出高を見たるの例も亦無きにあらず。