古田の檢地は、享和二年の規定に據れば、改作奉行その必要ありと認めたる時、之を算用場に稟請し、算用場奉行より意見を附して御用番の年寄に達し、御用番の承認を經たる時は算用場より定檢地奉行に下命す。この際他郡の御扶持人十村二人を選定して定檢地奉行に附屬せしめ、畑の折を定むる等の任務に服せしむ。折役といふ者是なり。改作奉行は又その郡の御扶持人十村中よりも主任たるものを定め、組裁許の十村に出役せしめ、定檢地奉行は自ら竿取人二人を率ゆ。若し古田にあらずして新開極高等なる場合には、定檢地奉行出張することなく、御扶持人十村執行の任に當り、竿取人に自郡の者を用ひ、新開裁許をして參加せしむ。内檢培と稱するもの即ち是なり。内槍地にして事情甚だ困難なるものあるときは、他郡より選定せる折役・繩張人・竿取人等を隨へたる改作奉行の出張することもありき。 本節に於いては、主として加賀藩の農吏及び農民に關する概要を述ぶ。 藩の農政を總轄するものを改作奉行といひ、藩末に在りてはその定員を十人とし、各足輕三人を附せらる。改作奉行には、當役の外に加人及び當分加人あり。加人とは定員以外のものをいふ。改作奉行の下吏に定役御算用方ありて、書算を掌る。是等の事務を執る所を改作所と稱し、御算用場内の一部に設置せらる。 改作は初め多く開作の字を用ひ、耕地整理・新田開墾・農事奬勵等の意味を含蓄せり。改作法の執行は、前田綱紀の施政を攝行したる利常によりて慶安四年より着手せられ、伊藤内膳等を奉行とし、御扶持人十村等を小松城内に延きて事務を執らしめ、明暦二年に至りて略成功せるものなり。その法、米穀の産額増大を以て國益の第一なりとし、耕作を勵まして農民の貧窮に陷るを防ぎ、作食米を貸與して力役に堪へしめ、隱田を禁じ、新開を奬め、租率は一村を通じたる免相(メンアヒ)に從ひ、年々の豐凶によりて變動することなからしめ、未進即ち租米不納を禁じ、給人の知行に對する平均免を大ならしむるに拘らず、收納を確實ならしむる等の方法を講ずるに於いて、他の諸藩に多く見るべからざる美績を擧げ得たり。而して利常が勸農に力を致したる程度の如何なるものなるかに就きては、明暦三年越中の村吏に與へたる命令に見るも亦その一斑を知り得べし。 一、女子までをもいだし、開作勢子可入事。但、百姓氣詰りに無之、浮立々々候樣心得可申候。 一、牛馬をころし候か、不慮にて開作入用銀つかへ候はゞ、百姓の申まゝにかし渡候樣、てんをかゝさぬ樣笹島豐前に可申聞事。 一、役に立まじき百姓は早々入替可申事。 一、晝夜付て居申程に心得、打廻りうち廻り可申事。 一、皆濟さへいたし候得者、それをよきと心得候義あしく候。皆濟をいたし、いかにも百姓つよく成立候樣、常に心にわすれまじくもの也。 二月廿一日(明暦三年)印(利常) 射水郡十村島村次郎右衞門 津幡江村宅助 〔河合録〕