加越能三國の十村中約二十人は、承應二年より萬治元年に至る間に初めて藩より扶持を支給せられき。御扶持人十村又は單に御扶持人といふもの是なり。是より先前田利家の時、能登熊來村の太右衞門・相神村の孫六・大澤村の内記・粟藏村の彦右衞門・中居村の三右衞門等の諸百姓は各功勞により扶持を受けたりといへども、職務の十村たるが故に扶持を給はり、而して御扶持人十村の名あるに至りしは承應二年を以て初とすといはる。御扶持人十村は、諸郡打銀主付・定小物成取立人・散役裁許等を兼役とす。散役は散小物成といふに同じ。御扶持人十村は又自己の組の外二組三組の十村の示談に加り意見を述ぶ。之を廻り口と稱す。他郡の臨時御用に出役することもまたあり。 又無組御扶持人十村といふ者あり。御扶持人十村にして、配下の組を有せざるものをいふ。寛文元年山本清三郎等四人の改作奉行たりし時、御扶持人十村中より十村全体の監督者たるべきものを選定すべき必要ありしが、若しこの監督者に自身直轄の組下を有せしむる時は、その處置公平なる能はざるを以て之を除き、而して組下の百姓より鍬手米を收納する能はざる代りに、藩の代官として取扱ふ租米の額を増加し、之に對する手數料の所得を多からしめたるに起る。無組御扶持人十村は御扶持人十村よりも上位に列し、その中に付きて、諸郡御用棟取を命ぜらるゝことあり。 無組御扶持人十村・御扶持人十村にあらざるものは、之を平十村と稱す。又無組御扶持人十村並・御扶持人十村並・平十村並といふあり。皆本役に準じ、本役に進むべきものを試補として用ふるものにして、扶持を與へざるを普通とす。又無組御扶持人十村列・御扶持人十村列・平十村列といふあり。多年本役を勤務せるものゝ老年に至りて職を免ぜられたるとき之に列せられ、從來の功績によりて前扶持高を給せられ、或はその半高を與へられ、或は全く給せられず。また十村以外の職に從ひて功勞ありし者もこれに列せらるゝことあり。然るときは名は十村なるも、單に十村たるの榮譽を受くるのみ。